しかし、問題はむしろこの外にある。まず、京都においては、慶長年間(1596~1615)にはカルタ遊技はまだ新奇な遊技であり、公家の中院通村が友人の大名から教わってカルタ札を特注で制作させて遊んでいた記録のように、ごく一部の武家や公家の間で遊技に供される程度である。この中院通村の記録はすでに紹介したように、日記中の元和二年(1616)二月十四日の「十四日、召経師藤蔵カルタヲ令摺之(右傍注「石川主殿頭所令新刊也」)(左傍注「南蛮ノアソヒ物也」)」という記事であり、二月十四日に経師の藤蔵を呼び出して、有力大名の大久保忠隣の次男、美濃大垣藩主、石川主殿頭忠総が藤蔵に命じて新たに刊行させた南蛮の遊び物のカルタについて、同じものを自分(通村)にも摺って作成するように依頼したというのである。有力大名の石川主殿頭が新たに作らせたとか、南蛮の遊びものであるとわざわざ注記したりする辺りには、カルタ遊技がまだ新奇なものとして理解されていたことが窺われるのであって、遊里で遊女が暇つぶしに遊ぶまでに一般化した遊技、その道具とは思われない。

慶長年間(1596~1615)が終わり、元和二年(1616)に至ってもなおこういう状況であったのだから、こうした上流階級の新しい遊技が京都の遊里に流れ、遊女と遊客の間で遊ばれるようになったのは元和年間(1615~24)以降、本格的に普及したのは寛永年間(1624~44)と考えられるのであり、遊女が暇つぶしに禿(かむろ)相手に遊ぶほどに市中で一般に普及したのは早くてもこの時期であったと思われる。遊女が遊技している場面は寛永年間(1624~44)以降の京都の遊里での風俗であり、慶長年間(1596~1615)の風俗としては想定できない。したがって、上記のようにカルタ札の描写という点では慶長年間(1596~1615)制作説が成り立ちうるとしても、遊女のカルタ遊技場面の描写という点で、「松浦屏風」を慶長年間(1596~1615)の作品とするのには無理がある。

次に、江戸時代初期(1603~52)には、二人で行うカルタの遊技法は記録にない。江戸時代前期(1652~1704)に入ると「カブ」系の遊技で少しある。この時期に制作されたカルタ遊技の絵図は何枚かあるが、二人で遊技している例は珍しい。当時盛んだった「ヨミ」という遊技法にしても「合セ」にしても、二人というのは想定外である。江戸時代前期(1652~1704)、井原西鶴の著作の刊本などに二人でカルタ遊技をしている場面が現れることがあるが、ごく簡略な挿絵であり史料的な信頼性は薄い。そして、こうした簡略図で描かれている遊技も「カブ」に限られる。一方「松浦屏風」のカルタ遊技はあきらかに二人での遊技の図であるが、「カブ」ではない。江戸時代初期(1603~52)には二人遊びの痕跡がないのであるから、この点でも慶長年間(1596~1615)制作説は成り立ちにくい。

一般に、「邸内遊楽図」にカルタが描かれるときは、三人から五人の遊技者であり、これは十分に納得のいく数である。それが「松浦屏風」の絵図では二人である。壽川はこれを、屏風の画面構成の都合で、多人数で行っている遊技場面の一部を切り取って描いたものと理解している。なるほどと思わないでもない。例えばこのウェブサイトの総表紙に採用した立命館大学蔵のカルタ遊技図と類似する、遊女一人と禿(かむろ)一人、それに二人の男性遊客の四人で「合せカルタ」に興じている元絵があって、「松浦屏風」では屏風絵の構図の都合からして元絵の二名の男性を消して遊女一名と禿(かむろ)を残したとすると、こういう構図になる。「合せ」の遊技は第六トリック、場にはすでに他の姿の見えない遊技者が投じた「オウルの四」の札があり、遊女がそれに応じて自分の手札を一枚投じようとしており、禿(かむろ)は自分の順番を待っている瞬間ということになる。禿(かむろ)の膝下に一トリック分の四枚の札があるのも理解できる。表現されているカルタ札が少ないことも男性の遊技者とともに消えたとすれば説明がつく。だがそれは、男女がペアのタンゴの舞踏場面を描く絵画で女性だけを踊らせて描いているような不自然さ、欠落感を生む。投手と捕手だけ描いて内野手も外野手もいないままで野球の試合風景とするような違和感がある。だから、「松浦屏風」の絵師はカルタ遊技に不案内で、二人では遊技が成立しないことに気づいておらず、実際のカルタ遊びの情景を活写できていないという疑問が消えない。

結局のところ、この屏風絵では、カルタ札は古い初期の南蛮カルタ札ないし天正カルタ札を正しく描写しているとしても、それは後世になってからでも、古い時期のカルタ札を持ってくればいくらでも描けるところであり、そもそも早くも慶長年間(1596~1615)に遊里で遊女が暇つぶしに遊技していたというのはちょっとあり得ない想像であり、また遊技法が慶長年間(1596~1615)のものとは違っていていかにも奇妙であることもあって、やはり慶長年間(1596~1615)の制作ではなく、この時代を追憶しようとして古い「南蛮かルタ」ないし「天正カルタ」を探し出して模写した後世の絵師の構図であると考えられる。後世の作とする成瀬や近藤の主張を支持したいと思う。ただし、松浦静山が屏風制作の指導者で江戸(1704~89)後半の作であるとする成瀬の理解には同調するだけの根拠を持たない。これが私の「松浦屏風」に関する史料批判である。

なお、令和元年(2019)に開催されたサントリー美術館の「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展に、元禄年間(1688~1704)頃の第三期木版天正カルタを模した手描きの黄金札三十七枚[1]が展示された。それまで彩色の分かる天正カルタ札は滴翠美術館蔵の「ハウのキリ」一枚しか知られていないのであるから、目を見張る新出史料ということになる。この史料を見て驚いたことは多々あるが、その一つは、紋標「ハウ」では、数札でも絵札でも、棍棒の側面はすべて網目模様で描かれていることである。これが木版のカルタの忠実な模写であるとすると、元禄年間(1688~1704)頃の末期の木版天正カルタ札では、それ以前の、側面を緻密な横線の繰り返しで表現した伝統を排して、網目模様で表現していたことになる。木版の版木の彫り方としてはやや安易な方法である。そして、これを見た時に驚いたのは、「松浦屏風」で禿が手にする「ハウの三」の札の棍棒の側面が同じように網目模様であったからである。こんな片隅に「松浦屏風」成立の年代表示が隠れていたのかという衝撃を感じた。この、元禄年間(1688~1704)の天正カルタを思わせる表現の特徴を見ると、松浦屏風の絵師は同時代の日本製のカルタ札を手本としており、私の、江戸時代初期(1603~52)の初期天正カルタのカルタ札を見つけてきて後世に描いたという想定は崩れたことになる。この混乱をうまく説明できるいくつかの仮説が念頭に浮かぶが、いずれも史料の根拠に薄い安直な逃げ道に思えて私の意には添わない。ここでは説明に窮すると書いておこう。


[1] 展覧会目録『遊びの流儀 遊楽図の系譜』、サントリー美術館、令和元年、一三六頁。

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