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(一)一対・二枚の「絵合せかるた」の発展史

私は、以前から、絵合せかるたの歴史に関心が強く、考えるところがある。これからその概略を説明しておこう。それはおおむね次のようなものである。

  • 江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)には、平安時代から伝わる「貝覆」

の遊技から派生して、対になる図像、あるいは同一の図像が描かれた五十対・百枚ないし百対・二百枚の札を用いて、その図像に応じて一対となる二枚の札を合わせ取る絵合せかるたの遊技が盛んに遊ばれていた。中には、「貝覆」の様式に忠実に従って、百八十対・三百六十枚という大部の札を一組にまとめたものもあった。

  • 元禄年間(1688~1704)以降にそうした「二枚絵合せかるた」で、同じ種類のものを

二組併せて遊技をする「デュプリケイション」と呼ばれる遊技法の改良が起き、一紋標の札が四枚で構成される「四枚絵合せかるた」が成立した。この時期よりも古い一紋標・四枚のかるた札は知られていないし、その存在を示す文献史料も発見されていない。この改良に伴い、単に二枚の札を合せるシンプルな遊技法から、合せる場札を選択して手札で釣り取るフィッシング・ゲームの遊技法が誕生した。さらに、同じ紋標の四枚のかるた札に価値の高低を付けて、その図像にも精粗の差を設けるようになったし、図像の上にその札の得点を文字で書き込むことも起きた。この抜本的な変化によって生まれた一層魅力的な遊技法は人々の人気を得た。

  • 四枚絵合せかるたでは一組の札が五十紋標・二百枚ないし百紋標・四百枚になって大

部に過ぎるので、実際に遊技する際には一組の札を全部使うのではなく、一部の紋標の札に絞って少ない枚数で遊技して、ゲームがスピードアップされるとともに札を釣り取りやすくする遊技法の改良が起きた。その後、そもそも札の制作時から一組の札の枚数を減少させたコンパクトなかるたも登場した。

  • 四枚絵合せかるたの一種として花鳥風月を画題とする絵合せかるたが生じた。このか

るたでは、太陽や月のような天文、海の荒波や著名な名山のような自然、樹木や果実、農作物、また能や狂言に由来する器具なども紋標として活用されたが、半ばは花樹、草花で占められていて、こうした紋標が百種で四百枚構成のもの、五十種で二百枚構成のもの、二十五種で百枚構成のものなどが現れた。この花鳥風月の絵合せかるたは「花合せかるた」と呼ばれた。そして、享保年間(1716~36)頃までに、十二種で四十八枚構成のコンパクトなものが作られるようになった。このかるたの歴史については別に扱う。

  • そして、十八世紀、江戸時代中期(1704~89)に、今度は、フィッシング・ゲームを

海外から伝来したカルタの系統の札でも行おうという工夫が生じた。ここに成立したのが、「天正カルタ」の札を用いる、「合せ」ないし「テンショ」「天正」と呼ばれる遊技である。後に江戸を中心に大流行した「めくり」の前身なので、「プロトめくり」とも呼ばれる。この遊技法の登場の時期は江戸時代中期(1704~89)、場所は上方である。この「めくりカルタ」についても改めて個別に扱う。

これが私の理解する、一紋標が二枚の札を用いる絵合せかるた遊技から、一紋標が四枚の札を用いるフィッシング・ゲームが生誕した経緯である。簡単に言えば、この遊技法は元禄年間(1688~1704)以降に一対・二枚の絵合せかるたを母胎として新しい遊技法として考案され、江戸時代中期(1704~89)に十二紋標・四十八枚の「花合せかるた」を生み出し、さらに伝来のカルタを用いた「プロトめくり」の遊技、当時の呼称では「合せ」「てんしょ」にもなったということである。以下でもう少し詳細に説明しておこう。

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