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(二)一対・二枚の「絵合せかるた」の遊技法

文献史料では、『毛吹草』[1]の「付合」の部分に、「袷(あはせ)」と「繪合(ゑあはせ)」に「賀留多(かるた)遊」があり、延宝三年(1675)の『吉原大雑書』[2]は、今の女郎はあさましいという感想を述べる際に、昔の遊女について「あわせかるたうたかるたけんしさかもり哥あわせ哥やれんかやしをつくりさもけたかくもじんしやうにしほらしくおはせしが」、つまり、「あはせかるた」「歌かるた」「源氏さかもり(不詳)」「歌合せ」「和歌」「連歌」「漢詩」などの素養があったと述べている。いずれも文芸に関連する遊技であり、これを楽しむには気高い教養を要する。絵合せかるた研究の第一人者であった山口格太郎は、この「あはせかるた」はおそらく絵合せかるたのことであろうと判断しているが、私も文芸色のある、例えば「源氏物語絵合せかるた」や「伊勢物語絵合せかるた」で良いのではないかと思っている。細かくいえば、『毛吹草』の記述は、かるた札という京都の名産品を紹介する諸国名産品の項ではなく、「付合」の項での紹介なので、かるた札ではなく、「絵合せ」や「合せ」という遊技法を示しており、『吉原大雑書』の「あわせかるた」「哥かるた」は「歌合せ」「和歌」「連歌」「漢詩」などの遊技名と並ぶのであるから、これも札の呼称ではなく遊技名を示しているということになる。

一方、『雍州府志』には絵合せかるたの遊技法についての記載がない。黒川道祐が書き漏らした理由は分からないが、推測すれば、六條坊門(五條橋通)の木版カルタ屋では、脇の物としてもこういう種類のかるたには手を出していなかったのであろう。二條通あたりのかるた屋でしか制作されていなければ、黒川の記述の射程から外れる危険性がある事情はすでに述べた。二條通周辺での絵草子屋の取材が甘かったということであろう。

この時期の一対・二枚の絵合せかるたの遊技法に関する史料はほとんど存在しないが、それが貝覆の発展形だとすると、対になる札の一方だけを集めて場に円形に並べ、もう一方の札を中央の空き地に出し置いて、符合する札を探すというものであったと思われる。少し時代が下がるが、江戸時代前期の前半に、往時を偲んで蛤貝型や将棋駒型の歌合せかるたが作られており、何点かが今日まで残されている。これの遊び方がまさにこの円形の配置である。私は、絵合せかるたにおいても、こういう形の遊技であったのではないかと想像している。

こういう遊技法であると、一対・二枚の札の内、例えば右側の絵の札を場に並べて、左側の絵の札を合せる遊技法の場合、場に誤りなく右側の絵の札を集めて並べる必要がある。こうした左右の違いを図像だけから判断するのは非常に難しい作業であり、そこで、何らかの識別の指標が必要になる。私は、初期の絵合せかるたにあった図像の主題の漢字表記と平仮名表記の違いが識別の目安であったのだと考えている。あるいは札の裏面に、番号と左右の別が書かれていたのかもしれない。いずれにせよ、実際に遊技する者、多くは奥様やお嬢様の女性が自ら整理し、配置するのであればまだしも、侍女が作業にあたるには、その者にも最低限の識字の力が必要である。戦国の世ではさてどうであっただろうか。絵合せかるたは、女子教育の水準が上がった平和な世の中でこそ流行できる遊技であったと思う。

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