発見者である私の思いは、かるた札の制作工程に及ぶ。江戸時代の朝廷に「歌留多所」という部署があったとは知らない。つまり、美麗な絵合せかるたは内裏の中で制作されていたものではない。そうではなく、内裏のすぐ近くに店を持つ、二條通り周辺の手描きかるた屋に発注して、繪所預が描いた図像を生かして、かるた屋の工房でその技を生かしてかるたに仕立てて宮中に納入したと考える方が当時の事情に合っている。「王朝のあそび いにしえの雅びなせかい」展や「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展で見た上品で典雅な仕立の絵合せかるたには、描かれた図像だけでなく、縁返しの見事な細工などかるた札の仕立としても凛とした存在感があった。

なお、上に列挙した絵合せかるた札の制作年代は分かりにくいが、歴史研究上で特に重要なのは、絵合せかるたが発祥した江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)と、それが大きく発展した元禄年間(1688~1704)以降、江戸時代中期(1704~89)、後期(1789~1854)の区分である。それを判別する上では、所蔵者に伝わる伝承も大事な情報であるが、粉本主義による図像の類似という難点を超えるより客観的な指標はないのかを考えるとき、特に注目させるのが裏紙の色合いである。江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の絵合せかるたや歌合せかるたでは、裏紙は銀色紙が使われている。一方、元禄年間(1688~1704)以降には、豪華な作りのかるたと言えばまず金色の裏紙である。この違いには、もちろん例外はありうるし、どちらにも属さない模様の裏紙が使われることもあるが、大雑把であれ一応の区分ができる。上にあげたかるた札の中で裏銀紙のかるたを取り出してみると次のようになる。所蔵者の伝承ではこの時期とされている何点かのかるた札が金裏紙であるために選に漏れてしまうが、それはお許しを請うことになる。

滴翠美術館蔵品 
  自讃歌絵入歌かるた(八・二×五・五)元禄年間(『うんすんかるた』)
  伊勢物語絵入歌かるた(七・五×四・八)元禄年間(『うんすんかるた』)
  源氏物語絵入歌かるた(八・二×五・五)元禄年間(『うんすんかるた』)
  唐武者絵かるた(七・九×五・五)元禄年間(『滴翠名品展』)
  能狂言絵合せかるた(七・五×四・八)寛永年間(『うんすんかるた』)

所蔵者不詳
  源氏物語かるた(七・八×五・三)制作年代不詳(『王朝のあそび』)

以上がとりあえず銀裏紙の絵合せかるたである。これに、別章で扱ってきた、いずれも銀裏紙の、和歌の上の句札と下の句札を合わせる文字だけの歌合せかるた、同じく上の句札に歌人像を加えた歌人像付き歌合せかるた-、蛤貝型図像、将棋駒型、扇面型などの変形歌合せかるたなどが、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の合せかるた類と理解できる。これらのかるた札に共通する同じような落ち着いた時代色は、明らかに、元禄年間(1688~1704)以降の金色に輝く豪華絢爛なかるた札とは一線を画せると思う。ただし、くどいようだが、裏紙による区分は一応の目安であり、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)に金裏紙のかるた札が全くなかったとは言い切れない。たとえば、色紙型という古式を残している「持明院基時卿色紙型百人一首歌かるた」[1]は金裏紙である。あるいは、上の句札は金地の裏紙、下句札は銀地の裏紙という組み合わせのものもある[2]。それらをすべて元禄年間(1688~1704)以降のものと断定する趣旨ではない。

自讃歌歌入り絵合せかるた
自讃歌歌入り絵合せかるた
伝道勝法親王筆百人一首歌合せかるた
伝道勝法親王筆
百人一首歌合せかるた
貝形源氏歌合せかるた
貝形源氏歌合せかるた

もう一点、かるた札の時代を判定するのに意外に頼りになるのはかるた札の大きさと、縦横の比率である。上にリストアップした絵合せかるたを見ると、おおむね縦が九センチ以下であり、やや幅広である。元禄年間(1688~1704)以降になると、妙に大きめのかるた札も登場するが、それ以前には、どのかるた札も一応の大きさの範囲に行儀よく収まっているのが興味深い。

だが、いずれにせよこれは私が図合せかるた史研究の開始時に、仮に計測しただけの不十分なデータである。今後、かるた札のサイズをより精緻に計測し、個々のかるた札に付随している制作者や、所蔵者の記録などの背景情報も加味して、かるた札の制作年代を正確に把握するような研究の進展を望みたい。


[1] 『歌留多』平凡社、昭和五十九年、六〇頁。

[2] 「紙地細長型百人一首歌かるた」『別冊太陽愛蔵版百人一首』、平凡社、昭和四十九年、一三二頁。

おすすめの記事