二 骨牌税適用外の「かるた」の消長 (三)「歌合せかるた」の展開 昭和後期(1945~89)の社会では、「百人一首歌かるた」は、なお正月中心の家庭遊戯のツールとして使われていたが、社会の変化、家庭の変化の中で徐々に衰退していた。とくに、和歌に親しむ伝来の文化が日常の生活から消えていくなかでは、百人一首の和歌を諳んじている人間も少なくなり、正月の年中行事としてのかるた取りも盛り上がりに... 館長
未分類 (四)「武蔵野」という名称の由来 ここで「武蔵野」という名称について考えてみたい。すでに紹介したように、元禄年間(1688~1704)の「花合せかるた」の発見により、この時期までに百紋標・四百枚構成の「花合せかるた」が誕生していたことが史料的にはっきりした。一方、十二紋標・四十八枚構成の「花合せかるた」がいつごろ誕生し、いつごろから「武蔵野」と呼ばれる... 館長
三 一紋標・四枚の「絵合せかるた」の歴史 (六)「やまと絵」の本流、土佐派の絵師が描く絵合せかるた こうして、絵合せかるたを江戸時代の日本の美術史の中でどう理解するのかという課題が浮上するのであるが、それはすなわち、日本におけるミニアチュール美術史の理解に直結する。これに触れることは、この方面にずぶの素人である私には、足もすくむ課題である。無知から生じる誤りを恐れ、最小限の記述にとどめたい。 まず明らかなのは、絵合せ... 館長
三 一紋標・四枚の「絵合せかるた」の歴史 (五)絵合せかるたの制作年代の測定 発見者である私の思いは、かるた札の制作工程に及ぶ。江戸時代の朝廷に「歌留多所」という部署があったとは知らない。つまり、美麗な絵合せかるたは内裏の中で制作されていたものではない。そうではなく、内裏のすぐ近くに店を持つ、二條通り周辺の手描きかるた屋に発注して、繪所預が描いた図像を生かして、かるた屋の工房でその技を生かしてか... 館長
三 一紋標・四枚の「絵合せかるた」の歴史 (四)絵合せかるた札は江戸期のミニアチュール絵画の粋 絵合せかるたのかるた札は散逸が激しいが、何点かの遺品がある。その中で特筆するべきなのは兵庫県芦屋市の滴翠美術館が蒐集した何点かのもっとも古く、美麗なかるた札である。また、大聖寺や宝鏡寺などの京都の門跡寺院にも、何点かのきわめて上品な、細密画法で描かれたかるた札が伝えられている。これらは、絵合せかるた史の研究上は最重要な... 館長
未分類 六 定家が添削して編纂した、自家の秘密教材たる百首の「歌群」 『百人秀歌冷泉家本』(『百人一首への招待』) 『百人一首』の成立の研究に関して私が疑問に思っているのは、従来の国文学者の『百人一首』成立論では、まず、藤原定家という人間が、和歌を家業とする中堅の公家で、父親の藤原俊成の努力によって和歌の道の本家、家元となった御子左家を継承した者として、それを次の世代の後継者、為家に引き... 管理人