このかるたの書誌的なデータの説明から入りたい。このかるたのカードは縦七・九センチ、横五・四センチで・、表紙(おもてがみ)は金無地の紙、裏面も同じく金無地であるが微妙に色合いが変化させられており、「縁返し」の細工が施されている。枚数は五十対・百枚で、その他に「四の十二 五十番」と書かれて所蔵印の捺されたカードが一枚あり、これが一組の完揃いのかるたであることが分かる。カードは、一度は屏風様のものに貼り込まれていたが、後代になって一対・二枚ごとに台紙ごと切り分けられた。基本的には右側に仮名札、左側に漢字札が貼られている。こうすると、右のカードの人物は左を向き、左のカードの人物は右を向くので、互いに向き合っている舞台上の情景が再現されて美しい。逆だとお互いにそっぽを向くことになる。左右が逆に貼られたものもあるがそのカードだけ特にそうする理由が見当たらないので単なる作業上のミスと思われる。これは紙貼りの木箱に収められた状態で発見された。現所有者は平成初年(1989~2003)に名古屋市内の古物店から購入していて、以前の所有者に関する情報は存在しない。
狂言の曲目は各流派に二百番以上伝わっており、それを和泉流の正本から五十番に絞って五巻の刊本にまとめたのは『絵入狂言記』[1]の工夫で、ここで始まった五巻、五十番という巻数、番数はその後の『絵入続狂言記』などの刊本に踏襲されており、これに着想を得て五十組の編成にしたとすると「狂言合せかるた」の成立は『絵入狂言記』が発刊された万治年間(1658~61)以降のこととなる。なお、『絵入狂言記』は、各流派で後継者に誤りなく伝承するために残された門外不出の秘伝の手引書であったそれまでの手書きの正本、秘伝書と異なり、広く普及して誰にでも狂言が理解できるように刊本にまとめられたものであり、分りやすくする一環として図像を付ける工夫がなされた。各曲名の台詞の最後に舞台を描写した挿画が付く。狂言の舞台を絵画で表現するこのアイディアが「絵合せかるた」という着想に影響したと考えられる。
次に、各々のカードに書かれた曲目の検討に移ろう。まず、五十番の曲目を紹介したい。
表題の順番は研究の便宜を優先して五十音順にした。分類は『和泉流狂言名寄並びに位附』に依る。曲目はカード上の記載のままで、( )内の登場人物名は画像を見ての私の判断である。
悪坊 出家物 〔仮名札〕あくほう(僧)、〔漢字札〕悪坊(悪坊) |
表記は基本的に和泉流の曲目の呼称である[2]。和泉流の曲名呼称の基準として天理大学図書館蔵の『狂言六義』[3]を見れば、「伊呂波」、「金津地蔵」、「うちさた」(内沙汰)、「雷」が一致している。これが大蔵流の正本からのものであるとすれば「以呂波」、「金津」、「右近左近(おこさこ)」、「神鳴」という表記になるはずであり、このことから和泉流に近いものと知れる。
また、和泉流の内部では、刊本の『絵入狂言記』『絵入続狂言記』、『狂言記拾遺』『狂言記外五十番』(狂言記外篇)[4]の四冊で各五十番、合計二百番の曲目を合せても「狂言絵合せかるた」の曲目五十番の内で三点(髭櫓、鈍太郎、雷)は該当するものがないし、ほかに数点表記が異なっているものもあるので、これらの刊本を直接に手本にして制作されたものではないことが分かる。一方で、天理図書館蔵『狂言六義』と符合させると、五十番が漏れなく収録されており、「苞山伏」が仮名札では「つと山ぶし」で実際に図像に弁当の苞が描かれているが漢字札では「土産山伏」という『狂言六義』に固有の珍しい表記と一致しており、「麻生」もまだ後世の「烏帽子折」という呼称に変化していないこともあり、これに近い系統の正本から抽出したことが分かる。
演目の表記には古いものがある。「花折」が「花折新発意」であるのは古い表記であるし、「宝の槌」も古い「槌」という表記である。ただし、『狂言六義』にいう「うちさた」の漢字表記「内沙汰」がかるたでは「氏貞」であり、「茶すあんはい」(茶子味梅)が「きさんはい」と「喜参倍」である。さらに最も注意すべきは「笠の下」である。これは『狂言六義』等では「地蔵舞」と表記されていて「笠の下」となったもっとも古い資料は『絵入狂言記』である。したがって、このかるたは、万治年間(1658~61)の刊本『絵入狂言記』発行に近い時期に、天理図書館蔵『狂言六義』にごく近い和泉流の系統に属する手書きの書物を手本として成立したが、その際に若干の誤記があり、もしそれも手本を忠実に写した結果だとすると未発見の、刊本とは別異の和泉流以外の流派のものも参考にしていたことになる。なお、「狂言合せかるた」の書は格調高く、力強く、江戸時代初期(1603~52)の書風を残して美しく、曲目から見える年代と矛盾しない。
なお、上掲の山口吉郎兵衛『うんすんかるた』記載の「絵合せかるた」類には五十対・百枚で構成されているものが多い。そのほかに、江戸時代前期(1652~1704)の「歌合せかるた」類にもそうした構成のものが散見される。江戸時代の「絵合せかるた」や「歌合せかるた」では、この枚数が一つの基準であったことが分かる。三池カルタ・歴史資料館所蔵の「狂言絵合せかるた」も平仄があっており不自然さがない。この時期のかるたにおいては百人一首が主役で、百対・二百枚の構成が標準であったとする百人一首かるた本源説は史実に反する。
[1] 北原保雄、大倉浩『狂言記の研究』(影印編、解説編)、勉誠堂、昭和五十八年。
[2] 安藤常次郎「狂言の分類」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第八輯、同研究科、昭和三十七年、一一一頁。
[3] 天理図書館善本叢書和書之部編集委員会『狂言六義』上・下(天理図書館善本叢書. 和書之部 第二十三、二十四巻)、天理大学出版部、昭和五十年。
[4] 野村八良『狂言記』上・下、有朋堂書店、大正十五年。