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(二)日本式かるたと日本の文化史

日本式かるたが社会的に広まったのは江戸時代前期(1652~1704)、第四代将軍徳川家綱の治世以降のことである。それ以前のごく少数の上級の武家や公家の世界での遊技具から発展して、遊郭での優雅な遊興の具となり、さらに一般社会に広まっていった。各種の「絵合せかるた」も「歌合せかるた」も、遊技と考案が重ねられていて、遊興と親睦の中で人々の知識、教養の向上に役立った。だが、カルタ、かるたの効用はそれだけにはとどまらない。

「歌合せかるた」とくに「百人一首歌合せかるた」には、日本の文化史の中で他に比類のない価値がある。江戸時代にこのかるたが普及したことで、多くの日本人は、日本という国が、天皇を中心とする和歌の文化で成り立っているという観念を持つようになった。もちろん、かるた遊びだけで和歌に関する共通の国民的な教養が形成されたわけではない。江戸時代中期(1704~89)以降に「百人一首」そのものが女子教育の教材として重用されて、「女子用往来物」の刊本などを通じて日常的に目にする機会が多くあったことも大きな意義を有している。寺子屋などで読み書きの教材に使われ、実際にその和歌を筆にした経験も大きな意味を持っていたであろう。それにしても、百人の歌人像を伴った二百枚の小紙片は、日本の文化のあり方をヴィジュアルに見せる点ではひな祭りの雛飾りと並んで秀逸であった。

政治的には、あるいは軍事的には江戸の徳川将軍家がどれほど強力であっても、文化的には京都の天皇中心の文化には敵わない。こういう価値観が浸透したのが江戸時代であった。但し、こういう政治的なパワーと文化的なパワーの並立というイメージを発達させたのは、江戸の徳川幕府に対抗する京都の朝廷ではなく、むしろ、圧倒的なパワーを持ちながら朝廷の文化に服するポーズを採った幕府そのものであった。五代将軍綱吉の時代を境に、幕府の強力な誘致策によって京都風の文化が江戸に集められて花開く風潮になった。かるたもその一つであり、いとも雅な宮廷文化が江戸の将軍家、諸大名の間で広まるとともに、旗本、御家人、町民の間にも浸透した。そうした意味で、かるたの文化は、純粋に京都風の雅な文化から、江戸好みの文化に変化することで発展したものであると言える。

また、「百人一首」が共通言語の形成に果たした役割も大きい。私は以前にこう書いたことがある。「大きく考えれば、ある社会の共通言語の骨格を形成したのは、ヨーロッパでは聖書、イスラム社会ではコーラン、中国では四書五経、そして日本では小倉百人一首である。南は薩摩の地から、北は津軽、松前まで、江戸時代(1602~1868)に人々が共通して口にできたものは、『小倉百人一首』だったのである。宗教の書でもなく、君子の道の書でもない。和歌を共有する社会という日本文化の特徴がこうして形成されたことの意義は、いくら強調してもし足りない」[1]。この思いは今も変わらない。明治時代(1868~1912)に標準語ができる前には、各地から江戸や京都に出てきた人々の間では日常のコミュニケーションでさえ困難があったであろう。江戸言葉、あるいは京都の言葉を習得すれば会話が成り立つが、心を開き気持ちを通い合わせるには、和歌を吟誦し合い、漢詩を吟詠し合う必要があった。これが共通言語であったからである。


[1] 江橋崇「歌留多になった小倉百人一首」、白幡洋三郎編『百人一首万華鏡』、思文閣出版、平成十七年、八二頁。

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