最後に、あとがき風に、私の考えてきたことを書いておきたい。その出発点は、「うんすんカルタ」というベタな日本語の名称にある。以前に「カルタ」という語がまず遊技の名称で、少し遅れて札の名称にもなったと述べたように、「うんすん」も最初は遊技の名称であって、札の名称は遅れたと思われる。そうすると、最初はどのような遊技であったのであろうか。
ここでこのカルタに言及した最古の文献史料である『歓遊桑話』が言うように、江戸時代初期(1603~52)に中国から伝来したと考えると、一組七十五枚の札を使う遊技を中国人が「宇牟須牟骨牌」と表記したのか「ウンスンカルタ」と発音したのかということになる。残された伝承から逆算すると、それはタロットと同類のトリック・テイキング・ゲームであったことだろう。七十五枚の札は五紋標に分かれ、各々に「一」から「九」までの数札があり、「ウマ」「コシ(キリ)」「ロハイ」「ソウタ」という南蛮カルタと同じ構成の絵札があり、そこに、「ウン」と「スン」が加わる。「うんすんカルタ」は「ウン」と「スン」の加わったカルタと言う意味だろう。中国の麻雀骨牌の歴史でも、1860年代までに揚子江流域で発達した麻吊(まーちゃお)骨牌に1970年代に「白」牌と「発」牌が加えられて今日のものの原型ができた当時に、発祥の地の浙江省寧波市ではそれを「白発麻雀」と呼んだ。「ウン」の札と「スン」の札が加わったから「うんすんカルタ」と呼ぶのは同じような発想だと思う。ただし、「ウン」と「スン」の元来の語義は不明である。他の札の名称とのバランスから、これらもポルトガル語に由来すると思われ、「ウンモ」や「スンモ」の翻案であるとする説もあるが私には分からない。
ここから先が分からない。まず、タロットと同類のトリック・テイキング・ゲームという意味だが、タロットの場合は、まず一組四十八枚のカードの遊技として成立し、そこに、16世紀までに切り札という考え方が加えられ、その切り札として大アルカナ札が考案された。つまり、タロット遊技では、切り札は常に第五の紋標である大アルカナ札に固定されていたのである。ところが「うんすんカルタ」では、切り札はゲームごとに五紋標のうちのどれかに変幻自在に移動するものとして定められていた。これはとても大きな違いであり、短期間に日本でなし得たこととは思われないので、すでに中国社会でここまで変化させたものが日本に伝来したと考えたくなる。しかし、第五の紋標は「巴(クル)」である。これは以前から日本にあった「巴紋」の応用と考えられる。そうすると、「うんすんカルタ」は、中国から伝来した時期にすでに、第五の紋標は中国的なデザインのものではなくて日本風の「巴」であり、それなのに、「クル」という南蛮風の元来の名称はそのまま引き継いだという不思議な事態になる。「うんすんカルタ」がほぼ後の時代と同じ七十五枚構成で中国経由で伝来したとする説の持つ最大の難所は、紋標「クル」という構成とその図柄が日本人の発想のように見えるという点にある。
そこで、立場を「うんすんカルタ」は日本の国内で考案されたとする説に変えて考えてみよう。普通、その際のモデルは四十八枚の南蛮カルタないし天正カルタと考えられている。遊技の面白さを増すために、日本国内で、この四紋標のカルタを五紋標に拡大し、あるいは既存の絵札にさらに強力な「ウン」と「スン」の札を上乗せするというアイディアが生じた可能性は十分に理解できるが、強力な絵札の図像をなぜ中国風にしたのかが理解しにくい。「ソウタ」「ウマ」「キリ」と同類のヨーロッパ系の人物図像が想像しにくかったのであろうか。確かに江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の日本人の記憶に残る南蛮人は、バテレン宣教師にせよ、カピタンにせよ、タロットの札の絵で見たエンペラやエンプレスにせよ、いずれもキリシタン禁制との関係で遊技具に登場させるのには支障がありそうだから、苦し紛れに中国の図像を借用したと考えられなくはない。しかし、それにしても、残されているどのうんすんカルタでも「ウン」と「スン」は見事に中国風の人物像で揃っている。日本国内の発祥なら、なぜ日本人らしい人物像にしなかったのであろうか。
そこで、第三の立場が登場する。それは、江戸時代初期(1603~52)ないし前期(1652~1704)の早い時期に、一組四十八枚の南蛮カルタとは別に、中国経由あるいは東南アジアの中国人社会経由でポルトガル船によって、一組七十五枚前後(タロットカードは一組七十八枚)の中国化したタロット遊技とそのカードが伝来し、その「ウン」と「スン」の札の図像は伝来当時の中国風のものが長く残ったが、第五の紋標は中国風のもの(詳細不明)から日本風の「巴(クル)」に変化したものが定着して江戸時代前期(1652~1704)までに完成されたと理解する、中国伝来・国内改善説である。こうした変化の時期は元禄年間(1688~1704)頃と考えられる。私はこの説が一番無難だと考えて居る。このカルタには、海外からの伝来の当初からの特徴と、日本国内での改良期の特徴が重なり合ってしまったと考えたらいいのではないか。だが、この説にしても、根拠となるしっかりした史料が見つからず、分からないことだらけで気が引けている。
念のために書いておくが、私には、一組七十五枚の「うんすんカルタ」の成立した時期が元禄年間(1688~1704)であるとする決定的な論拠があるのではない。美麗なカルタ札の物品史料を鑑定した山口吉郎兵衛の理解を特に否定することもなかろうと思っているのである。それが延宝年間(1673~1681)に成立していた可能性は、もっと以前、江戸時代初期(1603~52)にすでに存在した可能性と同じように否定することはできない。ただ、新説が言う延宝年間(1673~1681)起源説は史料が不足しており、説明が不十分で説として成立していないと言わせてもらっているだけである。
このような次第で、「うんすんカルタ」の発祥に関して私に解明できたことは、二系統のカルタ札があること、いずれも海外からの伝来品である可能性があること、しかし、日本風の図像への転換も大きく、国内で改良、あるいは考案された可能性が高いこと、その発祥の時期は最古の史料の残る元禄年間(1688~1704)以前であること、くらいである。自分では確とした発祥の時期が掴めていないのに、その発祥の時期を遅くも延宝年間(1673~1681)とした新説の独創的な見解の足を引っ張るだけに終わったような気がして情けない。他人の説が成立しないと攻撃することよりも、自分の説が成立することを証明することを優先させよという要求を自分にも改めて課しておきたい。