最近、「いろはカルタ」を世界に誇る文化遺産だとする見解が表された[1]。その趣旨は、これが諺を四十八句に絞り、絵画表現を付加した遊具だという点に尽きる。だが、この見解は、日本で創意工夫されたかるたの卓越した価値を十分には説明できていない。かるた史では脇役の「いろはかるた」グループ中の人気者を主役としている点に大きな誤解がある。

カルタが日本に入ってなされた最大の変化は、「表配りのゲーム」に用いる日本式のかるたが考案されたことにある。そして、元禄期以降に読み札と取り札という遊技法の構成が発展した。世界のカード・ゲームの中では、声を出してカードを読み上げて遊技を進めるものはとても珍しい。しかも、「百人一首歌合せかるた」でいえば上の句を吟誦したときに、それに対応する下の句を事前に暗記しておいて取りに行くのであり、百首の和歌が国民共通の教養として憶えられていなければこの遊技は国民娯楽として成り立たない。百個の詩篇を人々が共通して記憶しているという高度の文化は世界中で日本にしかなくて、こうした高度の文化水準をもたらした発声する遊技法もまた日本式かるたの大きな特性である。

北区百人一首
北区百人一首

さらに、「いろは譬合せかるた」の場合は上の句を読んでその冒頭の発音、たとえば「犬も歩けば」が読まれれば冒頭の「い」に対応する「い」の字の付いた絵札を探すのであるからまだ単純であるが、「百人一首歌合せかるた」の場合は、「む」「す」「め」「ふ」「さ」「ほ」「せ」のように、読み手の吟誦の第一音で取りに行くべきものもある一方で、たとえば「あさぼらけ」は二首あるのでその次の第六音の「せ」か「あ」を聞き分けてから取りに行かねばならない。しかし、いずれかが出たあとでは、そのことを記憶しておいて、「あさぼらけ」で取りに行かねばならない。いや、「あさぢふの」との区別は「あさぼ」か「あさぢ」で決まるから第三音が勝負である。「あさぢふの」がすでに出ていれば第二音の「あさ」で取りに行かねば間に合わない。ゲームが進行して「あ」で始まる和歌のカードがほぼ取り尽くされていれば「あ」の第一音で取ることになる。たった一枚の「あさぼらけ」のカードだけでもこれだけ複雑な知的操作が必要であるのに、それが百枚もある。この「決まり字」の移動をゲーム途中の短時間に正確に記憶しつつ進める遊技は実に高度に知的な仕掛けであり、世界にまったく例がない。

日本式かるたは、第一に表面を上にして行う「表配り」のかるたという独自の発達を遂げた遊技であること、第二にそれは声を発して進める文芸かるた遊技であること、第三にゲームの進行にともない読み手の発声に応じてカードを取りに行くべきタイミングは常に変化するので最新の状況を素早く分析して適切なカードを取る高度に知的な遊技であること、という意味において世界に誇るべき日本の遊技文化である。そして、自然への敬愛、自然との共生を主題とする和食や和紙が日本文化の粋として世界文化遺産になるのであれば、同様な理念を含む遊技文化として日本式かるたもその列に並ぶべきことになろう。

こうしたかるた文化が発達したのは、江戸時代、鎖国の時期である。二百年以上、対外的な戦争もなく、大規模な内乱も武力闘争もなかった平和な日本は、さまざまな負担、犠牲、代償を支払ってきたが基本的に平安な社会であった。だから日本のかるた遊技文化には、平和の香りがある。そしてそれゆえに、日本のかるた遊技は世界文化遺産とされるに値する高い価値を含んでいるのだと思う。こうした認識に達するには、「いろはカルタ」を世界に誇る文化遺産だとする見解では狭すぎる。もっと大きな確信があるべきであろう。

こうして、平成年間(1989~2019)の日本社会には、カルタ、かるた文化の継承、発展への様々な可能性があることが知られる。それがどこまで現実化するのかは、二十一世紀人の考え方と覚悟のあり方次第であると思う。その発展を願わずにはいられない。


[1] 時田昌瑞『岩波いろはカルタ辞典』、岩波書店、平成十六年、一七七頁。

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