前口上はこの辺で切り上げて、実体的な内容の検討に進もう。その際には、江戸時代後期(1789~1854)の「いろは譬えかるた」についてはほとんど唯一の残存例で、昭和四十年代(1965~74)にこれこそ斎藤月岑が記録した「北斎のいろはたとえ」であるとされ、後に「化政期かるた」とされた、平凡社刊の『別冊太陽 いろはかるた』や森田誠吾著の『昔いろはかるた』、あるいは『季刊江戸っ子』第十七号などで広く知られている村井カルタ資料館のかるた札も参考にしたい。
この四点の紙双六を見ると、内一点は江戸時代後期(1789~1854)のものであり、三点は幕末期(1854~67)のものである。まず、題名が興味を引く。江戸時代後期(1789~1854)のものと、幕末期でも安政三年(1856)刊の二点のものは、「いろは譬えかるた」の双六であるが、幕末期(1854~67)の他の二点は「いろはたとへ」の双六である。「明治初期かるた」も「いろはたとへ雙六」と表示されている。題名中に「かるた」が入った時期と入らなくなった時期がある。ここからバッサリ言い切ってしまえば、江戸時代後期(1789~1854)から幕末期(1854~67)に入った頃には、図像を伴った「いろは譬え」はまだ主として「かるた」の世界に固有の文化現象であったので「いろは譬えかるた」の双六と表記したが、幕末期(1854~67)が進むと「いろは譬え」の文化現象がもっと広く流行して、かるた以外のおもちゃ絵、番付、芝居絵、絵本などでも扱われ、広く人口に膾炙(かいしゃ)したので、そういう「いろは譬え」を紙双六にしたと表記して、かるた好きよりも一層広い範囲の人々の興味に訴える商品になったのではなかろうか、というイメージが湧いてくる。これは、「いろは譬え」の普及した範囲に関する相当に大胆な仮説である。今後、研究が進んで、江戸時代後期(1789~1854)の遊技具での「いろは譬え」関連商品の広い普及ぶりが明らかになり、私がここで示した仮説は史実ではなかったという史料が指摘されるであろうか。その際には己の短慮を反省して勉強させていただこう。
次に、再録された譬えの内容とその表記である。「明治初期かるた双六」は、採録した譬えが今日も通用している「いろはかるた」にごく近いので、これを近代型の「いろは譬えかるた」の発祥期のものとするならば、幕末期(1854~67)の三点のうちの二点は相当にこれに近く、近代化が進んでいる。ただし、残りの一点、「いろはたとひかるたすごろく」(以下、「安政期かるた双六」と略記)は、まさに「かるた」双六らしく、図像がかるた札の「絵札」になっていて「字札」は消えており、譬えの文字表記がないので、譬えの表記については判断できない。図像の類似性からすると、江戸時代後期後半(1830~54)のものに近かったのではなかろうかと思われるが、残念である。
一方、江戸時代後期(1789~1854)の「絵合せいろは譬えかるた双六」(以下、「嘉永期かるた双六」と略記。)は、譬えの表記が、「ろんよりしょうこ」が「ろんよりせうこ」、「にくまれこよにはばかる」が「にくまれこくににはばかる」、「へをひつてしりつぼめる」が「へをひつてしりすぼめる」、「まけるがかつ」が「まけるはかつ」、「きいてごくらくみてじごく」が「きいてごくらくみてぢごく」など、やはり少し古い時代のものである。また、採録されている譬えを「化政期かるた」と比較すると、二点、「化政期かるた」の「やすものぜにうしない」(安物買いの銭失い)が「やすものはな」(安物買うて鼻落とす)、「けんくはすぎてのぼうちぎり」(喧嘩過ぎての棒乳切り)が「げいはみおたすける」(芸は身を助ける)が異なる以外は一致しており、また、斎藤月岑が記録した化政期(1804~30)の「北斎のいろはたとへ」とは「つんぼうの早耳」「ひんの盗と恋の歌」「せんだんは二葉より」の三点が違っているほかは一致している。
なお、ここで、「化政期かるた」について一言しておこう。このかるたが江戸時代後期(1789~1854)のものであり、図像が紙双六よりも古い時期の様式のものであることは認められる。ただし、現存するものはたぶん後摺りであろう。残欠で発見されたものなので、画工、版元、発行年等の情報が失われているのでよく分からないところがある。絵札の顔料の色調が化政期(1804~30)のものとしては若いこと、芯紙に幕末期(1854~67)以降、特に明治初期(1868~77)に盛んになった輸出用の生糸生産での蚕の種紙、蚕卵紙(さんらんし)が転用されていることなどがこういう判断の根拠となる。但し、希有なことだが、化政期(1804~30)に摺られたかるたの表紙(おもてがみ)を、その購入者の側で誰かが明治前期(1868~87)に入ってから芯紙として蚕卵紙をあてがって加工した可能性はあるので、芯紙の年代から表紙(おもてがみ)の年代を推測することには判断を誤る危険性が残る。そして、「化政期かるた」の文字表記では、再録されている譬えは古いものだが表記が時折妙に若い。場合によっては、このかるたよりも少し時代の下がる「嘉永期かるた双六」の文字表記よりも近代に近いことさえある。このかるたでは、絵札の図像は伝来の「化政期かるた」のものを引き継いで使っているが、文字表記では、この後摺り版木の制作者によって後世の表記が混じってしまったのであろうと推測している。
次に、紙双六の絵札の図像であるが、ここで最も注目されるのは、江戸時代後期(1789~1854)の「嘉永期かるた双六」のかるた絵が、「化政期かるた」にきわめてよく似ていることである。「嘉永期かるた双六」が「化政期かるた」のタイプのものを手本として活用したこと、いいかえれば、「化政期かるた」のタイプのものがその後、江戸いろはかるたの定式として流行したことが分かる。但し、「化政期かるた」では、「ちりつもつてやまとなる」を唯一の例外として他のすべての札に人物が描かれている点で画工の意趣が明確であるのに対して(但し、「え」は絵札、字札ともに消失し、「かつたいのかさうらみ」「ていしゆのすきなあかゑぼし」「ゑんはいなもの」では絵札が消失しているので推定が混じっている)、「嘉永期かるた双六」では、「はなよりだんご」「るりもはりもてらせばひかる」「かつたいのかさうらみ」「えてにほをあげる」からも人物の図像が消えていて、これらの札には人物を描かない近代型の図像への転換がすでにこの時期に起きていたことが分かる。また「け」は、「化政期かるた」では「けんくわすぎてのぼうちぎり」であるが「嘉永期かるた双六」では「げいはみおたすける」であるから、図像は当然に異なっている。
なお、四点目の「大新板穴をがしいろはたとへ双六」は、残念ながら画工、版元、発行年等の情報に欠けるものであるが、「ふりだし」の「い」が「いしのうへにも三歳」であり、「に」が「にたもの女夫」、「ほ」が「ほねをつてしんどがり」、「か」が「かいたものがものいふ」、「よ」が「よみちに日がくれぬ」、「む」が「むぎめしでこい」、「く」が「くうはいろかゆる」、「京」が「京にいなかあり」など、相当に独自のものであり、上方文化の匂いがする。他の約四十の譬えは江戸いろはかるたのものであるから、これは上方出来の江戸いろはという奇妙なものになる。このことを一般化して、「化政期かるた」も原案は上方の発案で、それが江戸に入ってから「石の上にも三歳」が「犬も歩けば棒に当る」に、「骨折ってしんどがり」が「骨折って草臥れもうけ」に変わるなど、江戸風の色を濃くしたものだという仮説が成り立つように見えるが、私は、この紙双六はそれほど古くない幕末期(1854~67)のものであり、むしろ、「江戸いろはかるた」が上方に逆輸入されて、その後に「犬も歩けば‥‥」が上方風の「石の上にも‥‥」に戻り、「京の夢、大坂の夢」が「京に田舎あり」に戻ったものと考えている。いずれにせよ、江戸の文化と上方の文化が混じった奇妙な双六であり、気になるものではある。
こういうことで、「いろは譬えかるた双六」の検討から分かるのは、江戸時代後期(1879~1854)以降に、「いろは譬えかるた」が流行するのにつれて、「いろは譬えかるた双六」も発生していたこと、「いろは譬えかるた双六」の譬え、その図像には、時代の変化につれて多少の変化が見られるが、それは本体である「いろは譬えかるた」そのものにおける変化を反映しているものと考えられることである。いずれにせよ、これらの史料が登場したおかげで、それ以前は、東京の村井カルタ資料館に、「化政期かるた」が一つだけでポツンと存在しているだけで、他に江戸時代の江戸での「いろは譬えかるた」の成立事情を明らかにする史料がほとんど見つからなかったのであるから、研究条件は大分に改善されたことになる。