今日、「百人一首歌合せかるた」(以下、「百人一首かるた」と略記)の発祥に関して最も重要視される研究は、日本文学史研究者中村幸彦が昭和四十五年(1970)に俳句の同人誌『冬野』に寄稿した文章「雅俗漫筆(一)歌がるたの始め」[1]で明らかにした「しうかく院考案説」である。この文集には誤植が少なからず存在するが、後に昭和五十九年(1984)に『中村幸彦著述集』[2]第十三巻にそれを訂正した上で収録されている。

『當家雑記』表紙  (九州大学図書館)
『當家雑記』表紙
(九州大学図書館)

中村は、江戸時代初期の歌学の中心、大名の細川家の細川幽斎、忠興父子関連の文書『当家雑記』[3]の中に、細川家における「古今の札」の遊技と「しうかく院」という女性によるそれの改良に関する記事があることを発見した。この記事によると、細川家には、もともと、古今集の和歌について、上の句の始めの五文字と下の句の初めの五文字(七文字か?)を各々別の小紙片に記載して、それを合せ取る遊技があったところ、「しうかく院」はそれでは単調に過ぎて面白くないということでこれを改め、大きさは南蛮から伝来したかるたほどで白色と黄色の二枚の小紙片に上の句、下の句の全句を分かち書きしたものを和歌の数だけ制作して、その中から対応する二枚の小紙片を合せ取る遊技を考案した。当時はかるたも今のものよりは大きかった。カードの素材も紙だけでなく木の板で作られたこともある。さまざまな和歌集に関するものが作られた、というのである。この記事の筆者はさらに、その後これに用いる無地の色紙が京都の町で売り出されているのを見たことがあり、さらにその後には和歌を書き込んだものも売られていたようだと自分の見聞を語っている。

これは、「歌合せかるた」の起源に関する衝撃的な新史料の発見であった。文章の主題は「しうかく院」という女性が歌かるたの考案者だということであり、それが驚くべきことなのであるが、あわせて、当初の歌かるたの遊技法は「貝覆」と同じであったことも書かれているし、板かるたもあったことが書かれている。「歌合せかるた」は当初から「大方かるたほどの大きさ」の分厚い四角の紙片であったことや、その後に京都でそれを真似た無地の小型色紙が売り出されたことも分るので、発祥期の歌合せかるたは色紙型が基本で、蛤貝型、将棋駒型、扇型等の変型のかるたは後の時代の考案であろうとも推測できる。

残念なことに、中村は『当家雑記』の記述を裏付けるさらなる史料を発見できなかった。「しうかく院」という人物と交流があり京都に在住していて「しうかく院」から「古今の札」を贈られた「御まん様」が細川忠興の三女で、元和元年(1615)に上洛して烏丸中納言光賢の室となった「お万」であろうと推測されていて、「しうかく院」も「様」が付く身であり、忠興に近い高い地位の女性であろうと思われたが、それ以上のことは分らなかった。また、「古今の札」や「しうかく院」の考案した色紙状のかるた札も残ってはいない。そのためにこの魅力的な新説は謎のままで終わりそうであった。

昭和五十年代(1975~84)に「歌合せかるた」の研究を始めた私も、中村の問題提起は頭にあり、当時、かるたの研究者、蒐集家などが集まって作った「かるたをかたる会」では兵庫県芦屋市の山口格太郎、東京都杉並区の村井省三らとよく「しうかく院」考案説の議論をした。最初にこの話題を会合に持ち出したのは山口であったと記憶している。誰もが自分たちで新史料を発見してこの説を実証したいと念願していたがなかなか果たすことができなかった。それでも山口は昭和五十九年(1984)の「日本のかるた」[4]で『当家雑記』に触れた。平成二年(1990)の「歌かるたの成立とその性質」[5]でも繰り返している。村井は昭和五十九年(1984)の「日本のかるたの歴史」[6]でこれに触れた。私は、昭和六十三年(1988)の「遊戯史学会」発足の講演[7]では「トランプの伝来とかるたの歴史」を語り、歌かるたの発祥については「大急ぎで通過します」といって「しうかく院考案説」については全く語っていないが、平成二年(1990)の「百人一首成立期の謎」[8]でこれに触れた。

なお、ここで特に注意するべきなのは、『当家雑記』はこの新考案の遊技を「かるた」とは呼んでいないことである。今日から見て当時を説明するときにはどうしても「かるた」「歌かるた」という語を用いることになるが、慶長年間(1596~1615)には、当事者はこれを「古今の札」のように「札」の遊びとは書いていても、一種の「かるた」の遊びとはイメージしなかった。この文章に登場する「カルタ」は、「古今の札」のカードの大きさが「大きさも大かたかるたほどに」、つまり新来の「カルタ」に近い縦が十センチ程度のものであるということだけで、「古今の札」が「カルタ」のように長方形であるとさえ言われていない。

なお、「しうかく院」の人物特定については、その後、国文学研究資料館の藤島綾の研究[9]で大きな前進が見られた。藤島は細川家の『系図(寛永マデ)』によって、「しうかく院」は細川忠興の側室であった「秀岳院」[10]を指すと特定した。秀岳院は忠興との間に千丸とおまんを産んでいる。法名は「周岳院雪心宗広」である。一方おまんは、『当家雑記』に登場する「お万様」であり、二人は母子の関係にあった。藤島は「お万」が烏丸中納言光賢の室に迎えられて上洛したのが元和元年(1615)なので「しうかく院」による考案もこの時期ではないかとする理解を示している。中村の時期の判定とはやや違いがあるが妥当である。

また、平成年間(1989~2019)の末期に、私は、増川宏一遊戯史学会会長(当時)より、九州大学図書館所蔵の熊本県宇土藩の文書『当家聞書』に、『当家雑記』と同文の記事があることを教えて頂いた。これは、細川本家に伝わる文書を支藩の宇土細川藩が正確に写して保管していたものである。したがって、これにより歌合せかるたの起源に関して何か新しい事実が明らかになったということはないのであるが、しうかく院考案説の広がりが確認できたという点では貴重な史料である。


[1] 中村幸彦「雅俗漫筆(一)歌がるたの始め」『冬野』三十巻四号、冬野発行所、昭和四十五年、一頁。

[2] 中村幸彦「5物のはじまり 2歌がるた」『中村幸彦著述集』第十三巻、中央公論社、昭和五十九年、一八四頁。

[3] 『当家雑記』、九州大学付属図書館「細川文庫」蔵本(文書番号二七二)。

[4] 山口格太郎「日本のかるた」『古美術』第69号、三彩新社、昭和五十九年、四頁。

[5] 山口格太郎「歌かるたの成立とその性質」『季刊墨スペシャル第02号 百人一首』、芸術新聞社、四四頁。

[6] 村井省三「日本のかるたの歴史」『歌留多』、平凡社、昭和五十九年、二一五頁。

[7] 江橋崇「トランプの伝来とかるたの歴史」『遊戯史研究』第一号、遊戯史学会、平成元年、一四頁。

[8] 江橋崇「百人一首成立期の謎」『月刊文化財』平成三年一月号、第一法規出版、一〇頁。

[9] 藤島綾「二枚の絵札:伊勢物語かるたをめぐって」『国文学研究資料館紀要』第四十二号文学研究篇、人間文化研究機構国文学研究資料館、 平成二十八年、九三頁。

[10] 但し、細川家の家史『綿考輯録』第三巻、汲古書院、平成一年では「周岳院」。

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