百人一首の「歌仙手鑑」が登場するには、歌人像のモデルが必要であった。それは『素庵百人一首』や『尊圓百人一首』に掲載された図像であった。『素庵百人一首』は刊年が不明で一応寛永年間(1624~44)と推測されている。版を重ねて複数の種類の版がある。名筆の誉れも高かった角倉素庵の筆跡を版本にしたものであり、それには鷹峯工芸の粋である素庵の書に学ぶ、書道の教材、手鑑の重要な機能があった。一方、慶安年間(1648~1652)の作品とみられている『尊圓百人一首』は、青蓮院流、御家流とも呼ばれた尊圓流の書による百人一首を版本にしたものであり、歌人画では『素庵百人一首』を踏襲した。尊円法親王は南北朝時代の人であるから、『尊圓百人一首』はもちろん尊円法親王の真筆ではないが、書道教材としては尊圓流、御家流の書は主流であり、また素庵の書よりも格が上であり、実際に『尊圓百人一首』はよく普及して版を重ねた。従来の研究では、『尊圓百人一首』は『素庵百人一首』の単なる摸作で普及本と理解されており、私もそれに従っていた時期があるが、これ等を書道の教材という機能も帯びた版本と見れば、『尊圓百人一首』への高い評価やそれが盛行した理由も見えてくる。

こういうわけで、『素庵百人一首』も『尊圓百人一首』も、当時書道への関心を強めていた江戸や京都の人々にとっては格好の教材であったことだろう。だが、上流階級の女性や子どもに、こうした一般でも使われている刊本を教材として与えるのは不適切であり、そこに、華美な肉筆画の歌人図像を伴い、名手の手本の書を加えた豪華な手鑑が成立する理由がある。したがって、この種の手描きの「歌仙手鑑」の成立は、版本の「歌仙手鑑」の刊行よりも後、寛文年間(1661~73)よりも後の時期ということになる。

なお、百人一首という和歌集の評価の確立した時期であるが、これは私撰和歌集であり、江戸時代初期(1603~52)には、古今和歌集などの勅撰和歌集と比べれば一段格下であった。それが『光悦百人一首』などの刊行に伴い流行するようになった。この歌集には、二條家に伝来し、宗祇[1]、三條西実隆[2]、後陽成院[3]、細川幽斎[4]、中院通村を経て後水尾院に届いた標準型の表記と、冷泉家であろうか、世阿弥光悦に届いた異種の表記があり、寛永年間(1624~44)には両者が並立していたが、その後、この皇室に伝わる二條流の表記を採用した江戸狩野派による百人一首手鑑での主導権が確立し、慶安二年(1649)に中院通村による講義[5]が、また寛文元年(1661)に後水尾院による講釈[6]が各々二條流のものをテキストとして宮中で営まれたことにより、二條家伝来の標準型の表記のものが正統であると位置づけられるようになり、その後さらに北村季吟、菱川師宣の活躍によって標準型の表記のものが江戸をはじめ各地で広まり、その地位は確固としたものとなった。

もう一点付け加えれば、「手鑑」と題された版本が最初に現れたのは慶安四年(1851)、『慶安手鑑』であると言われている[7]。それ以前の版本では書名には「手鑑」と表記されてはいないが、実質的には『素庵百人一首』も『尊圓百人一首』も「手鑑」であった。


[1] 吉田幸一『影印本百人一首抄(宗祇抄)』、笠間書院、昭和四十四年。

[2] 「実隆筆百人一首」『別冊太陽愛蔵版百人一首』、平凡社、昭和四十九年、一九四頁。

[3] 「後陽成天皇百人一首抄」『列聖全集 御撰集』第三巻、列聖全集編纂会、大正五年、一五頁。

[4] 荒木尚『百人一首注・百人一首(幽斎抄)』(『百人一首注釈書叢刊3』)、和泉書院、平成三年。

[5] 大谷俊太「中院通村講・近衛信尋記『百人一首聞書』について」『研究年報』第四十四号、奈良女子大学文学部、平成十二年、二一頁。

[6] 島津忠夫、田中隆裕『後水尾天皇百人一首抄』(『百人一首注釈書叢刊6』)、和泉書院、平成六年。

[7] 『書道辞典』東京堂出版、昭和五十年、五三八頁。

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