(二)崇徳院の上畳の問題への無理解

なお、私が問題提起した崇徳院の上畳の問題について、「従来は、滴翠美術館の伝道勝法親王筆かるたを筆頭として、ごく早い時期の肉筆かるたの特徴とされてきました。古いかるたはそれで間違いないようですが、それが元禄頃に繧繝縁に移行したというのは資料的に否定されます。というのも、最近になってそんなに古そうでもない版彩色のかるたにもその特徴が認められたからです(論より証拠)。要するに上畳の情報は、必ずしも製作年代の決め手にならなかったのです。」「そうすると、一七五〇年前後がターニングポイントかもしれません。」[1]と批判する主張が現れた。これでは私はまるで史料に基づかない空理空論を唱えているだけのようで、我が事ながらこんなに曲解されては可哀想ではなかろうか。

私は、元禄年間(1688~1704)までに崇徳院に繧繝縁(うんげんべり)の上畳を配する標準型のかるたが成立したことを論証してきたのであり、元禄年間(1688~1704)に崇徳院の図像に上畳がないかるたが禁止されたとか、一斉に地を払ったなどとは全く考えていない。元禄年間(1688~1704)以降にも、古型かるたを懐かしがったり、手本の版本が古いものであったりする制作の都合で崇徳院の札に上畳を描き落としたかるたはいくらでもある。そういう時機に遅れたかるたが存在するからという理由で、なぜ、江戸時代前期(1652~1704)に崇徳院の上皇位を認めない百人一首かるたが成立し、元禄年間(1688~1704)までにそれを覆す標準型のかるたが成立したという歴史的な経緯が否定されるのか、さっぱりわからない。私のことはどうでも良いとしても、寛文年間(1661~73)から元禄年間(1688~1704)にかけての、江戸狩野派による土佐派からの百人一首歌仙絵のリーダーシップの奪取という大変に大きな日本美術史の変動のドラマが、天皇と皇族の歌人図像の表現を焦点として闘われ、崇徳院に繧繝縁(うんげんべり)の上畳を配することが天皇位に関する表現を是正するという江戸狩野派の主張の核心であったことがまったく理解できていない立論には、逆にとても可哀想だとしか言いようがない。「論より証拠」も大事だが、そもそも歴史を勉強しないで、二、三の骨董品を入手して、それが歴史像を一変させる大珍品の好史料だと自惚れ鏡で判断して、既出の文献史料や物品史料との比較、照合も行うことなく、その骨董品だけを「証拠」として歴史を解明したと考えて大論文にしてしまう方がよほど可笑しい。「骨董品探しより勉強」である。


[1] 吉海直人『百人一首かるたの世界』新典社新書24、新典社、平成二十年、六四頁。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です