全国各地の地方花札を見ると、越後花札、越後花札、山形花札、北海花札にはカス札上に古歌が記されている。柳の札は雨中を走る男である。これは、江戸時代の「武蔵野」の図像の特徴であり、地方花札が幕末期(1854~67)ないし明治前期(1868~87)に京都、大坂製の「武蔵野」を模倣して制作された事情を物語っている。そして、明治前期(1868~87)に北海道に開拓の手が伸びて、その地に花札賭博が盛んになり、大きな需要が生じる中で成立したのが北海花札であり、そこに古歌の記載があるのだから、この時期になっても地方花札は「武蔵野」の図柄であったことが分かる。
地方花札の中で最も京都、大坂製の花札に近いのは「越後花」である。新潟県は、すでに花札の発祥に関して新潟県長岡市の大平与文次の業績を検討した際に述べたように、江戸時代には北前船の航路を中心に関西方面とのつながりが深く、京都、大坂の花札遊技が伝来しており、そこに、明治前期(1868~87)になると東京との結びつきが強まり、関東風の花札の遊技が流入したと思われる。そのため、新潟県内では、越後花札を使って上方風の花札遊技を行うグループと、関東花札、八八花札を使って東京、横浜風の花札遊技を行うグループが混在していたと思われる。大平与文次の説明にもそれが窺える。そして、新潟県内では「越後花」を使う花札遊技の人気が根強く、新潟現地での製造は明治中期(1887~1902)までで終わったが、京都のカルタ屋がそれを引き継ぎ、昭和後期(1945~89)まで制作、出荷されていた。
「越後花札」に近いと考えられてきたのが「越後小花札」である。私の手元に明治中期(1887~1902)のものがあるが、これは、昭和後期(1945~89)にも任天堂で制作、販売されていて、得意先は越後、糸魚川流域の色町の芸者衆であったと伝承されている。この札は、柳の生き物札が笠を被った狸の図像であり、「武蔵野」の図像としては異端で強烈な印象を残す。また、芒のカス札に月の図像があるのも特徴である。昭和後期(1945~89)の札では、すでに和歌は消えているが、明治中期(1887~1902)のものでは和歌があり、また、芒のカス札には月はない。この明治中期(1887~1902)のものを見ると、柳の生き物札の違いを除けば越後花札とよく似ており、小型の越後花札と考えても良いが、これを越後小花と呼ぶのは昭和後期(1945~89)の資料や業界話であり、元来このように呼ばれていたのかは分からない。むしろ小型の「武蔵野」と考えた方がいいのかもしれない。後の「八八花札」には「小花」とか「懐中花」と呼ばれる小型の札がある。これが小型の「越後花」の伝統を受け継いだものであり、「越後小花」はそのモデルになった小型の武蔵野であった可能性がある。そうだとすると、この小形花札の流通地域はもっと広範で、「得意先は越後、糸魚川流域の色町の芸者衆」という話は検討し直すべきであるように思える。