これが、私の調査で判明した江戸時代前期の歌人図像付きの「百人一首かるた」発祥の真実であった。三十六歌仙絵と百人一首歌人絵の関係について語るのであれば、こういう基礎的な調査の手を抜いてはいけない。基本中の基本である『素庵百人一首』を調べもしないで、斎宮女御が持統天皇に化身したなどという史実に反するファンタジーを創作してはいけない。『尊圓百人一首』に強く影響された図像で成立している江戸時代前期後半、元禄年間(1688~1704)頃の『時雨殿本3』を「百人一首がまだ類型化・典型化される前の混沌とした状態を残している貴重な資料」等と五十年以上さかのぼらせて江戸時代初期(1603~52)のものであるかのように誇大に評価するのもいけない[1]。何よりも、自身で歴史を学ぶことなく、したがって史実に反して誤りだらけの旧説の問題性が把握できなくて模倣するのだが、しかしそれが史実に反するという近時の批判に反論するだけの確信もなくて、結局は逃げ道だらけのあいまいな表現で旧説を再現するだけのフィクションを学問として語ってはいけない。
私は、この歌仙絵、歌人画の研究に昭和末期(1986~89)に着手し、手元にある「飛畳三十六歌仙絵色紙」や「歌仙手鑑」は平成初年(1989~1998)に入手していた。研究を進める上では、江戸時代前期の絵師、狩野探幽、菱川師宣のことがとても気になっていたが、今までこれについてまとまった説明をしてこなかった。かるた絵に関して、半世紀も前の山口吉郎兵衛の記述に頼り切って旧説を繰り返しているだけの解説の横行を看過してきたことを反省しているが、今回、この文章を公表することで長年の歌仙絵の伝統がかるた絵に及ぼした影響について経緯を明らかにすることができて、問題の無視、黙殺か、せいぜい単なる印象記風の記述しかなかった俗な解説に終止符を打つことができると思う。
世に名高い「道勝法親王筆かるた」の歌人絵が実は版本の『尊圓百人一首』の歌人画とそっくり同じで引き写しであったという発見は衝撃的であったが、正しい歴史の認識に達するにはこのことを認めなければならなかった。歌仙絵の伝統は直接にかるた絵に影響したのではなく、まず、歌仙絵の伝統に影響されて百人一首の歌人画入りの版本が成立し、次いで、その版本を手本にして百人一首のかるた絵が登場したとする、二段階の影響という視点を持つことが大事だったのである。図式化すれば、歌仙絵画帖→無彩色の版本(手鑑)→彩色歌人絵の手鑑→彩色歌人絵付きかるたという順序になる。これを歌仙絵→手鑑→版本→かるたの順序だと主張するのは史実に反する、だから論拠のないファンタジーである。
[1] ただし、『別冊太陽百人一首への招待』、平凡社、平成二十五年、二四頁では、江戸時代前期とされている。長谷川宗圜はずいぶんと長生きしたようだ。