帯状骨牌印紙(明治三十五年)
帯状骨牌印紙(明治三十五年)

骨牌税法の施行については、明治三十五年(1902)七月一日に向けて準備が進んだ。五月二十二日に「骨牌税法施行規則」(明治三十五年勅令第百五十四号)と「骨牌ニ貼用スヘキ印紙ニ関スル件」(明治三十五年勅令第百五十五号)が定められ、六月十日に大蔵省令第十四号で骨牌印紙の形式が定められた。この段階では政府は骨牌を一組毎に十文字に封じる帯封型の骨牌印紙を定めたが、これは貼付に手間がかかる上に商標が隠れるという欠点もあって機能的でなく、とくにトランプの場合は諸外国にも類似の例がなく特異性が目立った。そして、勅令第百五十五号で、法の施行初期の骨牌印紙不足に備えて、七月一日から八月三十一日までは切手型の収入印紙二十銭を代用品として貼付して納税することを認めていたこともあり、印紙型の骨牌印紙の方が機能的であるので、八月二十六日の大蔵省令第二十号で収入印紙型の骨牌印紙を定めて、こちらを選択することも認めた。そこで、帯封型の骨牌印紙はほとんど使われることがなく二カ月で実際には廃止されたので、今日まで残されたものはとても少ない。

収入印紙状の骨牌印紙(明治年間)
収入印紙状の骨牌印紙(明治年間)
収入印紙(大正年間)
収入印紙(大正年間)

その後、大正七年(1918)十月に「骨牌税施行規則」(大正七年勅令第三百五十九号)が改正されてこの印紙型の骨牌印紙は廃止され、骨牌は一般の収入印紙を貼付することと定められた。この時に骨牌印紙の歴史は終わりを迎えたのである。今日では、骨牌印紙は帯状の物も収入印紙状の物も一部の印紙蒐集家のコレクターズ・アイテムとして珍重されている。さらに大正十五年(1926)には「骨牌税法」が改正され、四月一日より改正新法(大正一五年法律第二十号)に基づいて課税額が一組五十銭に増額された。その後、昭和十五年(1940)四月にも骨牌税法は改正され改正新法(昭和十五年法律第四十六号)で税額は一組七十銭に増額されたが、翌昭和十六年(1941)の年末には戦時課税を強化するとして「酒税等ノ増徴等ニ関スル法律」(昭和十六年法律第八十八号)によって一組一円五十銭に引き上げられた。大日本帝国としての骨牌課税強化の最後は昭和十九年(1944)の法改正であり、改正骨牌税法(昭和十九年法律第七号)は一組三円を課税することとした。なお、骨牌税法には元来は製作免許税の規定があったが、大正十五年(1926)の改正時に廃止された。この辺の詳細については、別に文章にした「骨牌税・トランプ類税小史」に書いたのでそちらを参照されたい。

新花札(制作者不明、明治中期))
新花札(制作者不明、明治中期))

このような経過で骨牌税法は実施されてきた。この法律が存在することで、免許を持たない者のカルタ制作は禁止された。それが全国各地のカルタ屋を淘汰する結果となったことはすでにふれたが、もう一つ、芸術家などによるオリジナルな花札の創作も消滅した。明治二十年代(1887~96)には、花札の大流行の中で「八八花札」の図像が徐々に定まっていたが、これとは別のオリジナルな図像を考える者もいた。かつて山口吉郎兵衛はその一例として、この時期の京都で考案された「新花札」について没風流であると批判する明治二十七年(1894)の論説[1]を紹介したことがある[2]。山口がこの指摘をした当時は雑誌の記事を引用できるだけであったが、その後私は実際にこの「新花札」の残欠二十六枚を発見した。雑誌の記事では、「生き物札」や「短冊札」の新意匠を「没風流」とする批判の部分が紹介されていたが、「カス札」に俳句が書かれていたことも発見できた。「新花札」では「武蔵野」の当時にカス札にあった古歌の代わりに俳句を掲載したのかもしれない。私は、当初はこれを「新花札」と「俳句花札」の二組の混在と理解していたが、それは不都合で、むしろ一組のものと考え直している。こういう新デザインの花札は、免許のあるカルタ屋に委託して製作してもらうのであれば合法だが、そうでなく、私家版として製作すれば違法な脱税品となる。

もともと、花札や他のカルタ、トランプなどの限定された画面に自分の芸術を盛り込んで自分なりの構成のカルタ類を作るというアイディアは、多くの書家、画家、イラストレーター、漫画家などを刺激してやまないところであった。西欧にも日本にも、そういう試みの成果で名作とされている芸術カルタ類は少なくない。だが、骨牌税法は、「イロハかるた」や「百人一首」は自由に放任したものの、花札やトランプについては厳しく規制した。明治二十年代(1887~96)の実験的、前衛的な花札デザインの考案はその後は途絶えてしまった。これが、骨牌税がもたらした日本のカルタ文化への副作用のひとつであった。

この時期に流行した煙草カードも困った事態を迎えた。日本では、当時は民営煙草の時代で、各社は売り上げ増進のために工夫を凝らしたが、その中でも煙草カードはひとつのアイディアであった。これはもともと欧米の煙草メーカーが始めたサービスで、煙草の小箱の中に小カードが一枚入っている。この花札図柄の煙草カードは明治二十年代から用いられていたが、骨牌税の導入により、これが違法な脱税品扱いになり、煙草メーカーは他の図像に変更しなければならなくなった。ただ、煙草製造業そのものが明治三十九年(1906)に官営化されてすべての煙草カードの挿入が廃止されたという点では、花札煙草カードの廃止はそれを数年前倒しで行ったものとなった。

こうした各種の問題を含みながら、骨牌税が実施されて賭博遊技カルタの歴史は大きな節目を迎えたことになる。私はこの時期に花札などの賭博遊技カルタは大日本帝国の標準装備の一つになったと判断している。賭博カルタは、多少は蔑視され、危険視されてはいたが、合法的な遊技用具としての法的な地位を確立した。登録して納税さえすれば、骨牌税法の印紙の付いた賭博カルタは国が公許した賭博用具として通用したのである。こうした大日本帝国のカルタ類は、日本国内でも書店や百貨店などでも堂々と販売されて大いに盛り上がるとともに、日本の対外的な膨張につれて、とくに国外に向けた拡張、発展を遂げていくことになる。それについては節を改める。

その前に一つだけ奇妙な事実を指摘しておこう。それはこの「骨牌税法」という法律の読み方である。「倭遅邇散史(いちにさんし)」こと尾佐竹猛は大正十一年(1922)に、花札の歴史を扱った論文の中で、「此法律の読方はカルタ税法かコッパイ税法かが問題である。」[3]と述べている。実際、骨牌税法では法律名の読み方が途中で変わるという不思議な事態が生じている。骨牌税法の成立当初は、この法律は法令全書の索引などでは「か」の中に含められていた。「かるたぜい」と呼んでいたのである。それが、大正年間(1912~26)には「こ」の中に含められるようになった。「こっぱいぜい」と呼ばれるようになったのである。大正十五年(1926)の法改正で新たに麻雀牌も課税対象となった。麻雀牌はまさに骨牌そのものであるから、これも含むとなると、法律の名称を「かるたぜい」と呼ぶのでは狭すぎることになり、「こっぱいぜい」に代わる契機になったのかもしれない。大正期以降の解説文書では「骨ぱい税法」と表記するものもある。こう表記すればこれを「かるたぜいほう」と読むものはなくなるから好都合である。法令に通称があることは珍しくないが、正式の呼称が変わったというのは面白いことである。骨牌税法違反で刑事裁判にかけられた者は、判決言い渡しの際に「カルタ税法○条違反」といわれたのか、「コッパイ税法○条違反」といわれたのか、好奇心がくすぐられる事態である。


[1] 『京都美術協会雑誌』二十号、明治二十七年、二四頁。

[2]  山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、七二頁。

[3] 倭遅邇散史「花カルタの沿革」中央法律新報四巻一号、大正十一年、一八頁。『賭博と掏摸の研究』第六章に収録。

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