こうして、吉田家旧蔵かるたの正体についてある程度の推測が可能になる。このかるたは高級な手描きのものであるが、京都の二條通り周辺のかるた工房で制作されていたこのレベルの高級かるたでは元禄年間(1688~1704)に裏紙が銀色紙からより一層豪華に見える金色紙に代わっている。しかし、本品はなお銀色紙であるので、元禄年間(1688~1704)を含む江戸時代前期(1652~1704)のものと考えられる。他方で、歌人名と和歌本文の表記は、菱川師宣の延宝年間(1673~81)の刊本以降の表記に合致しているので、制作時期の上限も限定される。そして、両者を合わせ考えると、元禄年間(1688~1704)か遅くも江戸時代中期前半(1704~36)の作品という理解が浮上してくるのである。

次に、このかるた札の制作の状況であるが、当時の歌合せかるたの制作と同じように、京都市内、二條通り周辺で手描きの歌合せかるたを商っていたかるた屋で制作されたものと思われる。絵師や書家の氏名は判明していないが、いずれにせよ、これ一品という単独の制作ではなく、同レベルの他のかるたと同時期に制作された商品と考えられる。各所からの注文を受けて制作された誂え品であるのか、一定の需要を見越して制作された商品であるのかは判然としない。

次に、このかるた札から想定される使用方法であるが、下の句札に図像があると、元禄年間(1688~1704)に始まったと考えられている「散し」や「源平」のように、畳の上に撒いて読み手の発声に応じて取り手が早く取り合う今日まで伝わっている遊技法には適さない。とくに、畳の上に無造作に散らすと、自分の位置からは札の上下が逆さに見えるものがあり、文字も分かりにくい草書体であるから、実際にこのかるた札をランダムに広げて眺めると、図像が札の識別、理解の邪魔になる。また、この方式では、上の句札は常に読み手の手中にあり、下の句札は取手の膝下に積まれるのであるから、二枚は分かれ分かれで、それを合わせて図像を鑑賞する機会は存在せず、このかるた札の魅力が発揮できない。

もう一つの当時の代表的な遊技法である「むべ山」の場合も、下の句札を参加者に配分して、各人が膝前に四角形か三角形に並べて、読み手が上の句を読むと該当する下の句札を裏返しに伏せるのであるから、やはりこのかるた札の魅力が発揮できない。おまけに、この吉田家旧蔵かるたでは、文屋康秀の札は、満月の月光に照らされた無風の野に咲く桔梗、菊、萩等の花であり、嵐の気配は描かれておらず、特別の役札であるという雰囲気は全くない。

だから、このかるたは、元禄年間(1688~1704)以降に標準になった読み手と取り手で遊技する技法ではなく、むしろそれよりも古い、上の句札を下の句札を合わせてそこに出現する図像の美を楽しむ、絵合せかるたの要素を含んだ歌合せかるたの原初的な遊技法に適していると考えられる。当時それは歌貝や續松(ついまつ)とも呼ばれていた。下の句札を数多く畳の上に丸く配置し、中央にスペースを設けてそこに上の句札を一枚置き、それに合う下の句札を探し出して二枚を合わせて見る。通常は和歌の上の句、下の句が合うことで正しい組み合わせであることを判断するが、このかるたの場合は、実際に二枚を合わせて見ると美しい風景図が浮かび上がることで正しい組み合わせであることが分かる。いかにも上流階級の家中の奥方様、お姫様が好みそうな優雅な仕組みである。かるた札を奪い合って楽しむ百人一首かるたではなく、札を合わせて楽しむ、図像を見て楽しむ百人一首かるた、これがこのかるたの正体である。

ただ、かるた札に図像を描き加えるのは江戸時代前期(1652~1704)以降の様式であり、上に検討した結果からも、このかるたを、歌貝の遊技が盛んであった江戸時代初期(1603~52)のものとすることはできにくい。つまりこのかるたは、江戸時代初期(1603~52)から流行していた歌貝(續松)の優雅な遊技法を懐かしんで、それに適するように制作させた、元禄年間(1688~1704)から江戸時代中期前半(1704~36)の、歌貝(續松)仕様の百人一首かるたということになる。なお、歌貝(續松)の遊技法は、江戸中期後半には読み手と取り手のある遊技法に押されて下火になったが、それまではなお盛んであった。例えば享保十七年(1732)刊の江島其碩筆、西川祐信画の『女中風俗玉鏡』や宝暦十三年(1763)刊の鈴木春信画の『繪本諸芸錦』等に掲載されているかるた遊技図はいずれも歌貝(續松)のものである。この歌貝(續松)仕様のかるたの制作年代と合致する。

『女中風俗玉鏡』 (江島其碩筆、 西川祐信画、菊屋喜兵衛刊、享保十七年)
『女中風俗玉鏡』 (江島其碩筆、
西川祐信画、菊屋喜兵衛刊、享保十七年)
『繪本諸芸錦』  (鈴木春信画、山崎金兵衛刊、宝暦十七年)
『繪本諸芸錦』
(鈴木春信画、山崎金兵衛刊、宝暦十七年)

そうした意味で、このかるたは、歌貝(續松)仕様であることが明確な元禄年間(1688~1704)以降の京都製の百人一首かるたであり、これまで文献史料でのみ存在が示されてきた歌貝(續松)仕様のものが、かるた札という物品史料で初めて確認できたという百人一首かるた研究史上の大きな価値がある。私は先般、元禄年間(1688~1704)の花合せかるたを発見することができたが、こうしてまた、この時期の貴重な遺品を手にすることができて幸せである。このかるたを三百年間、時代を超えて今日まで残し伝えることに意を尽くした多数の先人の努力に敬意を示したい。

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