五 「うんすんカルタ」の盛衰 (四)「うんすんカルタ」とは何だったのか 最後に、あとがき風に、私の考えてきたことを書いておきたい。その出発点は、「うんすんカルタ」というベタな日本語の名称にある。以前に「カルタ」という語がまず遊技の名称で、少し遅れて札の名称にもなったと述べたように、「うんすん」も最初は遊技の名称であって、札の名称は遅れたと思われる。そうすると、最初はどのような遊技であったの... 館長
五 「うんすんカルタ」の盛衰 (三)「うんすんカルタ」の終わり うんすんカルタはその始まりが良く分らないだけでなく、終りもよく分からない。古く清水晴風は、このかるたを『うなゐのとも』で紹介する際に江戸時代の文献の写し間違いをして、このかるたが寛政の改革で禁止されたと書いているが、史実ではない。うんすんカルタは、江戸時代中期(1704~89)後半に人気を失い、自然に消滅したと考えられ... 館長
五 「うんすんカルタ」の盛衰 (二)「うんすんカルタ」の制作地は二箇所 これまでの検討で明らかにしたように、二條通付近の絵草子屋で制作されていた手描き、手作りのカルタでは、例えば「ソウタ」図像の女性から坊主への変化が起きた痕跡がない。この地域で制作されていたカルタでは、一組四十八枚の伝来のカルタの札でも「ソウタ」の図像は女性の姿であり続け、名称も「ソウタ」のままであった。したがって、元禄年... 館長
五 「うんすんカルタ」の盛衰 (一)「うんすんカルタ」の発祥 さて、うんすんカルタの歴史にかかわる史料は以上に尽きるものであるが、物品史料、文献史料、人吉市の伝承史料を見たうえで、私には、なお、その歴史像が明確に把握できていない。今回書いたものもそこら中で分からないを連発しており、恥ずかしい。 私には、まず、『勧遊桒話』が主張した中国伝来説が否定できない。「ウン」や「スン」の図像... 館長