歌集『百人一首』誕生の謎 おわりに 令和四(二〇二三)年十一月に出版した『ものと人間の文化史189 百人一首』(法政大学出版局)とこの論文で、私の四十年に及んだ「百人一首歌かるた」史の探索の旅は一応の結論に達した。崇徳院の絵札に皇族を示す繧繝縁(うんげんべり)がないことに気づいたところから始まり、「百人一首歌かるた」では、和歌の順番、歌人名、和歌本文にお... 館長
歌集『百人一首』誕生の謎 八 『小倉百人一首』は後世に二條流が制作した歌集 村井の書を読むと、『名月記』から見えてくる、定家の長男光家(みついえ)への冷遇、迫害と、後妻との間に生まれた為家(ためいえ)への溺愛が通奏低音のように流れている。よく家庭内のドメスティックバイオレンスの父親を見て育った子どもは長じて自分でも同じようなDVを繰り返すと言われるが、為家もまた父定家の示した実子の間でのえこひ... 館長
歌集『百人一首』誕生の謎 七 後鳥羽院との絶縁を表明する定家 後鳥羽天皇(ウィキペディア) ところが、ここで定家の計算違いの事態が出現した。軽率な息子為家は、この一子相伝、師資相承の秘儀が存在する事実を、妻の父、舅(しうと)である宇都宮頼綱に漏らしてしまった。あるいは、「伝授」の席での父定家の厳しい指導への愚痴をこぼしたのかもしれない。ここで頼綱が何を考えたのかは記録では明らかで... 館長
歌集『百人一首』誕生の謎 六 定家が添削して編纂した、自家の秘密教材たる百首の「歌群」 『百人一首』の成立の研究に関して私が疑問に思っているのは、従来の国文学者の『百人一首』成立論では、まず、藤原定家という人間が、和歌を家業とする中堅の公家で、父親の藤原俊成の努力によって和歌の道の本家、家元となった御子左家を継承した者として、それを次の世代の後継者、為家に引き継ぐことに生涯、腐心し続けたという事実が軽視さ... 館長
歌集『百人一首』誕生の謎 五 小倉色紙の登場 小倉色紙、壬生忠見 (徳川美術館・『墨』58号) ここで「小倉色紙」について考察しておこう。これは『百人一首』の和歌を書いた定家自筆の色紙である。散逸していて、すべてが残っているものではない。『百人一首』は晩年の定家が編集したとする定家編集説は、それを証明する歴史史料が存在しないという大きな弱点を含んでいるが、もし「小... 館長
歌集『百人一首』誕生の謎 四 公家、藤原定家の「家記」と「家歌記」への執念 こうして、私は、『百人一首』の成立について、素人らしい何点かの疑問を抱くようになった。そしてよく見れば、すべての疑問は同じ方角を指している。私には、従来の百人一首発祥論が語ってきたところとはまるで違う方角を向いている一群の「歌群」が見える。以下でそれを説明しよう。 村井は『明月記』を御子左家の「家記」(家の日記)だとす... 館長
歌集『百人一首』誕生の謎 三 『百人一首』を歌集と理解した場合の問題点 第四の疑問は、これは今まですでに多くの人によって指摘されてきた点であるが、この「歌群」には当初歌集の名前がなく、定家の死後、子孫によって歌人と和歌に入替が行なわれ、また『百人一首』または『小倉百人一首』とする呼称が付けられて世に広められたという経緯がある。昭和後期(一九四五~八九)になって、『百人秀歌』という類似の歌集... 館長
歌集『百人一首』誕生の謎 二 「持統天皇」と「持綩天皇」という表記の差異が示すもの ここで最も鮮明に問題の所在を明らかにするものとして、この歌集の先頭から二人目の歌人名の表記に関する問題点がある。今日、通常、これは「持統天皇」と表記される。この表記は、ふり返れば、江戸時代前期の後半、元禄年間に近い時期まで遡るが、宮中を別とすれば社会的にはこの時期が初見である。しかし、これと異なり、室町時代中期に忽然と... 館長
歌集『百人一首』誕生の謎 一 『百人一首』発祥論への疑問 藤原爲家(早稲田大学図書館) さて、前書きはこの辺で切り上げて本論に入ろう。私は、先の原稿を執筆した際に、いくつかの点で、素人の疑問を提示しておいた。まず、専門家は決して言わないことだが、私は、『百人一首』という歌集の「お手軽感」がとても気になっていた。鎌倉時代の歌集といえば、数千首の和歌を集めた重厚なものが普通であり... 館長
歌集『百人一首』誕生の謎 はじめに:『藤原定家「明月記」の世界』の刊行に触発されて 以前に私は自分が館長を務めるウェブサイトの「日本かるた文化館」で「絢爛(けんらん)たる暗号・百人一首発祥論著作の読書感想」を発表した。はなはだ不十分なものであるが、日本文芸史の素人としてできる限りの努力はしたつもりである。この論文は今でも「日本かるた文化館」サイトの「ESSAY」のコーナーに掲載してあるので、ご覧いただ... 館長
MONOGRAPH Awase Carta in the Carl Peter Thvnberg donated historical materials Home-page of The World Culture Museum. Carl Peter Thvnberg (1) Carl Peter Thvnberg, the first person to present Japanese carta to the world The first European t... 館長
麻雀牌が語る麻雀の歴史 おわりに 本書をまとめ終えて、ある種の感慨がある。物品史料を駆使して麻雀の歴史を再検討する。その結論が、以前に誰かが唱えていた旧説であっても一向にかまわない。私が求めているのは、既成の麻雀史が描けなかった新説の提示ではなく、麻雀遊技の歴史について、今後、多くの研究者によって研究が積み重ねられていく基礎となる、「歴史学」のレベルに... 館長