延宝年間(1673~81)以降に歌合せかるたが京都の町で流行したが、それは同時に、「古今和歌集歌合せかるた」「三十六歌仙歌合せかるた」「自讃歌歌集歌合せかるた」などを上回って「百人一首かるた」が主役に飛躍した時期でもあった。もともと江戸時代初期の歌合せかるたでは、当時の和歌享受の文化そのものがそうであったように、古今和歌集や三十六歌仙集などが主役であった。一方、百人一首は、歌集そのものがまだそれほど盛んでなく、手書きの写本という形で広まっていったがそれほどではなく、歌人の名前にも和歌の本文にも、表記には様々な揺らぎがあり、和歌の理解、解釈、鑑賞も確かなものが安定して存在するものではなかった。

本阿弥光悦『百人一首』
本阿弥光悦『百人一首』
(古活字本)

こうした状況が一変したのは、京都で、木版印刷の刊本が出版されるようになったからである。とくに、慶長年間(1596~1615)の刊行である本阿弥光悦の古活字本、寛永年間(1624~44)の角倉素庵の死後に、素庵の書と絵師不明の歌人 図像を合せて刊行した歌人 図像入りの木版本『角倉素庵筆百人一首』(以下、『素庵百人一首』と略記)の出版は圧倒的に歓迎され、百人一首の認知度は飛躍的に高まったと思われる。これに加えて、歌学の主役、宗祇の系統をひく細川幽斎による注釈本『百人一首抄』が木版で出版され、ここに、安定した表記、安定した解釈、安定した歌人図像が定まったのである。このアドバンテージをさらに拡大したのが、『素庵百人一首』やその歌人図像を模倣した慶安年間(1648~52)の『ゑ入尊圓百人一首』(以下『尊圓百人一首』と略記)などの「手鑑」つまり書道手本としての活用であった。この時京都の町衆の女性たちは、木版本で和歌と歌人図像を見ることで雅な王朝文化を感じ取り、木版本を手本とする書の練習で和歌を詠う喜びをその手で体験できた。元禄時代(1588~1704)にはさらにこれに加えて、和歌を読みあげて遊技する方法が新たに始まったので、耳と口からも王朝文化を感じ取ることができるようになった。こうして、京都の町衆から始まって江戸の町民まで、目と耳と口と手で気軽に王朝文化を味わえる素材として百人一首の人気が高まった。これが、木版本の文化の興隆に支えられて、元禄年間(1688~1704)以降に歌合せかるたの世界で「百人一首かるた」が主役になりえた理由であると思われる。

天智天皇
天智天皇 (『素庵筆百人一首』、
江戸時代初期)
天智天皇
天智天皇(『ゑ入尊圓百人一首』、
江戸時代前期)
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