日本は幕末期 (1854~67)に開国し、日本海交易の拠点として函館、新潟が開港され、外国人の居住、日本人との混住がはじまった。北海道では、さらに、小樽港が交易の拠点となり、日本とロシアとの交流が盛んになったが、函館にロシアのカルタが伝来した記録は見つからず、その遊技法も知らない。一方、新潟は開港したものの、外国人の来訪、居住は少数にとどまり[1]、ロシア人の居住はごく少なったようで、ここにもそのカルタ遊技の記録は見つけられなかった。

その後、明治三十七、八年 (1904~05)の日露戦争で捕虜とされたロシア人将兵が日本国内、愛媛県松山市などの収容所で生活し、カルタに興じたという記録はあり、それを機会に日本国内でのトランプの普及も広まったが、ここからロシアのカルタ遊技の技法が広まったという記録はない。さらに、第一次世界大戦後にロシアは革命を経て共産主義社会主義国となり、新国家に反対した者は激しく攻撃された。そのために、迫害を避けて多くのロシア人が中国東北部や日本本土に亡命してきた。彼らは白系ロシア人と呼ばれ、多くが神戸や函館に居住したが、そこにも、ロシアのカルタ遊技に関する記録は見つけられなかった。

ソビエトの反宗教カルタ
ソビエトの反宗教カルタ (20世紀)

他方で、ロシア革命以後には、マルクス主義の伝播、国際共産主義運動の流入などもあり、非合法に成立した日本共産党を軸にして、新生のソビエト連邦の社会主義文化への憧憬、崇拝、模倣が広まった。社会主義演劇や映画、プロレタリア文学、ロシア民謡、ロシア料理などが高く評価され、広まったが、そこにロシアのカルタ遊技はなかった。また、ソビエト政府は、伝統のカルタカードの絵札に描かれている王朝文化を嫌って、図像からキングやクイーンを追放し、労働者や農民、その他の人物像に変えたカードの普及も進めたが、そういう物が日本に伝来した記録もない。ごく少量がロシア旅行の記念品、土産として持ち込まれていたであろうけれども、伝来と呼べるほどの社会現象にはなってはいない。


[1] 青柳正俊「雑居地新潟に関する一考察―「外国人の居留地外居住問題」をめぐる展開」『東北アジア研究』第二十巻、東北大学東北アジア研究センター、平成十八年、一頁。

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