関東花札での和歌の消滅
関東花札での和歌の消滅

もう一点取り上げたいのは「関東花札」である。これは幕末、明治前期(1854~87)に関東地方に存在した花札であるが、史料不足が災いして、これまではほとんど注目されてこなかった。私も説明をちゅうちょしてきた。これからやや詳細に説明しておこう。

まず、この地方花札の基本的な特徴を指摘すると、①木版花札製作の本場、京都製の「武蔵野」には和歌が何首か記載されていたが、関東花には和歌がない。この革命的な変革により、関東花は容易に識別できる。元々、元禄年間(1688~1704)の花合せかるたは絵合せかるたであり、歌合せかるたではないので表面に和歌の記載はなかった。江戸時代中期(1704~89)の手描きの花合せかるたにも和歌はなかった。それなのに、寛政年間(1789~1801)以降の木版の花合せかるた、つまり「武蔵野」には、紋標「松」「梅」「藤」「菖蒲」「薄」「紅葉」のカス札に和歌の記載がある。これは木版花合せかるたの販売元、井上山城あたりが、花鳥風月に和歌を配して文芸かるたの風を装った商品に仕立てた販売戦略であったのだろう。たしかに、花鳥風月を愛し、文芸の世界に生きることをよしとされていた江戸や京都の女性や女児には、手に取りやすいかるたになったから、この工夫は成功であり、和歌のある「武蔵野」が標準的な花合せかるたになった。そして、こういう意匠の京都製の花札が江戸でも大いに好まれた。だが、幕末(1854~68)、明治前期(1868~87)の混乱期には、江戸、東京の人々は、この文芸臭さを嫌って、和歌を廃した。

②関東花札は、唐傘を閉じたままで雷雨の中を走る奴という元禄年間(1688~1704)以来の伝統ある図像を、雨の中で唐傘を開いて立つ人に変えた。初期には、ここには様々な人物が宛てられ、徐々に公家の姿、そして最終的には小野道風の姿に変えていった。

芒に満月の札での空の色の変化
芒に満月の札での空の色の変化

③もともと薄青色の空に浮かぶ銀色の月であった紋標「薄」の満月を真っ赤に彩色し、さらに、空の部分を赤くして月は白く浮かび上がらせるという、文芸風のかるたであればおよそ似つかわしくない図像に改めてしまった。ここに、花合せかるたが仮託してきた文芸色の雰囲気は払しょくされ、花鳥風月の絵合せかるたという本然の姿に戻ったのである。江戸っ子は、自然を愛することは変わりないが、京都人のいかにも人を見下した文芸かるたの本場自慢がお気に召さなかったのである。

④細かい話であるが、「武蔵野」では、紋標「藤」のホトトギスの高点札では、元々は飛翔するホトトギスの背後には何も描かれていなかったが、幕末期(1854~68)頃に赤い雲が加えられた。これは手中で札を少しずらすだけで高点札であると識別する機能も担った改良であったが、後にそれが赤い三日月に変わった。だが関東花札では、背景には三日月ではなく赤い満月が加えられた。通常、満月は黄色に着色するので、赤い満月はあるいは太陽かとも見まごう彩色である。

関東花札の藤に杜鵑の札と芒に満月の札 (制作者不明、明治前期)
関東花札の藤に杜鵑の札と芒に満月の札
(制作者不明、明治前期)

⑤「武蔵野」では、紋標「梅」のカス札に青色の霞が描かれていたが、関東花札では赤い綿雲が描かれた。また、紋標「薄」のカス札にも空に浮かぶ雲が描かれている。和歌を消したので出現した図柄の空白の部分がいかにも寂しげなので、綿雲を配したのであろうか。これは後に、雲と月の図柄に発展した。越後小花札も同様である

⑥「萩」のカス札も興味深い。元々、手書きの「花合せかるた」では、萩の枝が描かれていたが、木版「武蔵野」では、二枚のカス札の各々で、下部に幹が描かれている。これはその後、明治二十年代(1887~96)の「横浜花札」で消滅して、明治中期(1887~1903)の後期「武蔵野」や「八八花札」では枝だけしか描かれていない。

萩の札での幹の図像
萩の札での幹の図像

そして、この幹の図像は、いくつかの地方札に紺色の彩色で残っている。 中には、幹というよりも地面の盛り上がりのように彩色されているものもある。北から、北海花、東北花、花巻花、関東花、越後花、越後小花である。備前花に関しては、手元に明治中期(1887~1903)のものがあり。そこでは幹は消滅しているが、もっと古い時期のものに付いては分らない。ここで示されているのは、地方花札の分岐が幕末、明治前期(1868~87)に起きたことと、明治前期(1868~87)に発祥した北海花札にもこれがあるので、幹ないし地面の盛り上がりを描くのはこの時期まで続いていたことである。参考までに、任天堂ではその後の越後花札や越後小花札でもこの幹の彩色を残しているが、大石天狗堂では、残したり残さなかったりうろうろしている。

私は、花札史の研究と古い花札、地方花札の蒐集を始めたころから「関東花札」を探していた。それこそ地の底を這うような探索でなかなか成果が上がらなかったが、ついに、東京、群馬、千葉などで発見することができた。昭和後期(1945~89)の終盤、真冬の寒い朝、情報を得て新幹線で群馬に行き、博奕の本場、上州のその筋の人の子孫の家から出た三組の関東花札を初めて実見し、入手できた日の感激は数十年たった今でもよく憶えている。そしてその後、アメリカのコレクションでも一組を発見することができた。これには、欧米人も遊技しやすいように、各々のカードの上に洋数字が捺されていたから、開国後の東京か横浜で入手したものであろう。また、私が関東地方で発見した花札には、ここで見てきたように独自の図像になりきらないで、京都製の「武蔵野」に近い意匠の残るものもある。私は花札の新図案の試行錯誤の時期にはこういう不徹底の関東花札もあったのだろうと考えている。

関東花札の制作地は江戸、東京であろう。これは、一見上品な文芸遊技具のような京都の花札とは異なり、もっと庶民的な発想の物である。花札デザインの変化をたどると、明治二十年代(1887~96)に「武蔵野」から「八八花札」へと大転換しているが、後者の基本的な特徴とされる和歌の消滅と小野道風の図像がともにそれよりも古い時期の関東花札に現れていることが興味を引く。「八八花」の発祥は明治前期(1868~87)の横浜の遊郭であるが、そこでは「八八花札」が京都から供給されるようになるよりも以前の時期には、手軽な江戸、東京製の関東花札が使われており、それゆえに、京都のカルタ屋は、明治十年代(1877~86)末期に花札の販売が解禁され、「八八花」の遊技が大流行するようになると、元禄年間(1688~1704)以来の伝統と誇りを曲げて、それまでの「武蔵野」の図柄を捨て去り、横浜、東京での好みに合わせて、和歌を削除し、奴を消滅させた「八八花札」を制作するようになったのであろう。そういう意味では、以前から関東花札が有ったればこそ後の横浜花札、八八花札が生まれた、つまり、関東花札は八八花札の前身であったといえる。

なお、昭和五十年代(1975~84)に、イギリスのオークション会社、ギボンズのカード・オークションに、数点の関東花札が出品された。私も興味惹かれたが、村井省三が関心を示したので、競合を避け、コレクターとしては先輩なので遠慮して私は入札を辞退したので、ほぼ無競争で村井が落札し、「東京花」として村井カルタ資料館の所蔵に帰した。これも貴重な史料であるので記しておく。

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