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(二)花巻でのカルタ屋の起り

江戸時代の天正カルタでは、京都ないし大坂のカルタ屋が制作するカルタ札が全国に普及していたが、江戸時代後期(1789~1854)、天保の改革以降の時期には、カルタ札の制作、販売への規制も厳しくなり、その供給に障害が生じたこともあり、幕末期(1854~67)頃までには各地でカルタ札を現地で生産する動きが生じた。南部藩内では比較的に早い時期からこの動きがあり、幕末期(1854~67)には、天正カルタ及び花札を制作する現地のカルタ屋が複数軒、創業していたと考えられる。これは、全国の他の地域と比較しても出足が早い。主要な生産地の京都から距離が離れており、禁制をかいくぐってカルタ札を運ぶことが困難であった事情が作用したのであろうか。 

初期のカルタ屋の所在地は明らかでないが、「吉見」というカルタ屋は老舗であり、そこの屋号が「鶴屋」のそれと同じように、黒札の図柄の一部と理解されて他のカルタ屋のカルタ札にも残されている所から判断すれば、吉見は初期の模範的なカルタ屋であり、同店の所在地の土澤(現在は花巻市東和地区)が南部カルタの発祥の地と言えるのではなかろうか。 

南部カルタは、南部領内で広く普及しただけでなく、近隣の領域でも普及した。特に、奥州街道沿いの三戸、十和田地域、海運でつながる八戸藩の八戸、三沢などの沿岸地域、河川の水運でつながる北上川沿岸地域などに広がったと思われる。遊技法はよく分からないが、私は昭和末期(1986~89)に花巻、三沢などで現地調査に入り、三沢近隣の上北町(現在は東和町)の町営の湯治保養施設で高齢者が「どんつく」というカブ、キンゴ系の遊技法で楽しんでいる現場を発見した。事前に『遠野古事記』を読み知っていたので、同書に言う「せい」や「かう」の遊技から数百年を経て、すっかり様相は変わったのだろうけれども、まぎれもなく後身である黒札の遊技を目にして感激した。これはその後何人かの研究者によっても確認されている。また、私の調査の過程では、十和田方面の人たちが、年に一度湯治にやってきて、その仲間内で「どんつく」とはまるで異なる遊技法をしているという情報を得たが、現地での確認はできずに終わり、心残りであった。ただ、最近、めくりカルタ系の遊技が発見されたという報道がある。私が確認しきれなかったグループの遊技であると嬉しい。また、十和田地域の三戸の野瀬正観音堂には厨子に黒札のカルタ札を貼り巡らせたお堂があることも最近、知られるようになった。 

花巻市内でのカルタの制作は明治時代になると栄えた。南部藩近隣の地域での需要の拡大に加えて、新たに開発の手が入った北海道で、漁業や鉱業の作業現場で、労働者の労務管理の手段として花札の遊技が活用され、日本海側の海運で、新潟、酒田経由で京都のカルタ屋の「北海花」が導入されるのとならんで、南部花札(花巻花)や黒札も活発に利用された。 

幕末期(1854~67)から明治期(1868~1912)にかけての花巻市内でのかるた制作については、昭和三十年(1955)刊の八木英三『花巻市制施行記念花巻町政史稿』に次の記述がある。八木は明治二十年(1887)、花巻生まれで、長じて学校教師、新聞人などを勤めた人物であり、花巻のカルタ制作者の家族とも親しく、自分の生きた時代の記録なので信頼できて、研究の参考になる。なお、私は、昭和六十一年(1986)に川崎市内で、花巻市内のカルタ屋「鶴田」の関係者、鶴田辰蔵の面談調査を行い、その時の取材メモにはそこで聞いた次の話が残されている。「八木英三さんはよく知っている。自分が商売を始めるときも相談した人だ。この人のお兄さんは、姓は代わっているが八戸の有名なやくざだ」。同書の記述は次のようなものである。 

南部花巻同心屋敷
南部花巻同心屋敷
「特に豊沢橋を南に渡つて「向小路」と言はれた街道沿いの高台は「御同心町」と言はれた足軽の住宅街町で「三人扶持」「五人扶持」と言うような少禄で暮しを立てなければならない半農の住宅街だつたので、自然に内職の発達を見るようになつた。そこに発達した内職は「傘張り」と「花札」の製造であつた。幕末から明治にかけて向小路にはこの傘張りと花札造りの家は数十戸群れをなしていたものである。当初は花札の製造が盛んで「黒札」と言つて北海道の博打場向けの品物が相当に移出されていたがこれが時の流れと共に衰頽して大正の初年頃から廃業するものが多くなり、傘張りの方に転業して現在では花札屋は一軒もなくなつた。現在鶴田という花札屋が残つているが、あれは京都直仕入の特別な職業であり、向小路の連中がやつていたものとは全然形式の異なるものである。」 

ここでいう向小路の同心屋敷については、花巻史談会の『花巻史談』創刊号に、熊谷章一「同心屋敷の人たち」[1]が詳細な検討を加えており、当時はまだ個人情報の管理への配慮が浅かったからであろうか、個々人の姓名も特定されていて、実状が鮮明に見えた。私も、これを読んで、向小路の住民の聞き取り調査を行おうと決意することができた。私の手元には、当時、この家族は調査させてもらおうという印をつけた熊谷論文のコピーが今でも残っている。まったく見ず知らずなのに、一方的に押しかけて家族の歴史を問いただしたので、住民のプライバシーという面からすると申し訳なかったが有り難かった。


[1] 熊谷章一「同心屋敷の人たち」『花巻史談』創刊号、花巻史談会、花巻公民館、昭和五十一年、十六頁。

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