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三 花巻市内でのインタビュー調査

花札ラベル紙(「京娘」)
花札ラベル紙(「京娘」)
(花巻・鶴田実、昭和後期)

(一)花巻市の「鶴田」の鶴田ハナからの聞き取り調査 

私は、昭和五十六年(1981)に花巻市で面接調査を行い、廃業したカルタ屋、鶴田の女主人、鶴田ハナから話を聞いた。当時のメモをここに再現する。 

自分は現在六十四歳で、四十年前に嫁に来た時からカルタ作りで働いたので、今でも仕事の手はしっかりと覚えているけれども、作る一方で、歴史のこととか、遊び方は少しも知らない。また、黒札の一枚一枚の札の名前も知らない。 
 
私が働くようになったころは、二十人くらいの人を使っていたし、紙に土の入った糊を塗って重ねる土台作りが一番の重労働で、私はこれをやっていたが、おばあさんなどは、茶碗でカルタ一枚一枚につや出しをしていたと聞き、以前はもっと大変だったのだと感じた。苦労したのはつや出しで、色々な方法を試みたがなかなかうまくいかないで困った。
 
鶴田の家は初代の久太郎が明治時代に手作りでカルタ屋を始めたと聞いている。二代目の久太郎が私の舅に当る人で、その子の実が主人である。初代が京都のどこで修業したのかは知らないが、京都のカルタ屋の名前としては任天堂を聞いただけで他のメーカーは聞いたことがない。 
 
製造していたのは、花巻花、黒札、京花の三種類であった。 
花巻花は、これでなくては遊べないという人が花巻に何人かいて、終りの頃まで細々と作っていた。出荷先は花巻周辺に限られた。 
黒札は、青森県に出荷した。花巻では、これの遊び方を知っている人がいなくて、私も知らないが、話では、花札よりはるかに面白いそうだ。 
京札はごく普通のものだが、戦争中から戦後などは、朝鮮人がよく買いにきて、家の敷居のところで待っていて作るそばから持っていった。 
主人の時代は、おばあさんの考えで、「花魁」「京娘」「福娘」などの商標を使った。「花巻名産手遊かるた」というのはおじいさんの時代のものだ。家の屋号は山に十で、大日本観光堂というのは最後のころの名前だ。 
 
カルタ屋の商売が面白かった時期は短く、パチンコ屋が出てからはすっかり駄目だった。その後も細々とした注文があるので続けていたのだが、四年ほど間に休業届を出して止めた。止めるときにカルタ札などは税務署立ち合いですべて焼いたので残っていない。 
 
私は他のカルタ屋のことは聞いていない。すでに鶴田の家だけだった。なんでも税務署の監督が厳しくなって帳簿付けのできない家はやめていったそうだ。 
 
私以上に、主人の弟の鶴田辰蔵(住所、電話番号省略)のほうが昔のことはよく知っているはずだ。 
花巻花札(鶴田辰蔵、昭和後期)
花巻花札(鶴田辰蔵、昭和後期)

(二)「鶴田」の親族の聞き取り調査 

また、私は、昭和六十一年(1986)に川崎市で花巻市の鶴田家の関係者、鶴田辰蔵から話を聞いた。当時のメモをここに再現する。 

<自分とかるたのかかわり> 
自分は子どものころから家の手伝いをしていた。戦後になって、昭和二十五年(1950)頃まで自分の名前で作っていた。自分は「金鶴」「銀鶴」「白鶴」という商標で出荷していた。 
 
<鶴田の家の歴史> 
鶴田の家は、昔同心屋敷に居たことがある。鶴田の家は多分町人だ。お寺の記録からすると姓は明治維新後の新姓だと思う。同心屋敷に居たこととの関係は分からない。家は、その後、館に移り、さらに鉄道が開通したので於田屋町(現在は御田屋町と表記)に移った。於田屋町は北上川沿いにあり、舟問屋だったおばあさんの実家がすぐ前にあった。 
鶴田の家の屋号は山に十だ。鶴の紋は鶴田のものではない。 
祖父の初代久太郎はクリスチャンだった。木版に手彩色でカルタを作っていた。種類は花巻札と黒札で、手さばきは見事に早かったものだ。父や父の弟が手伝っていた。祖父がどこでカルタ作りの技術を身に付けたかは知らない。京都の任天堂ということも聞いていない。 
父は、祖父の死後、昭和七、八年(1932~33)頃に、東京に出て、二年間で石版印刷の技術を身につけて花巻に帰り、それまでの手彩色に代る印刷によるカルタ作りを始めた。黒札、花巻札に加えて、京花を作り始めた。 
兄の代になって、もう四十年前には止めている。 
 
<カルタの製造法> 
昔は粘土と生麩(しょうふ)を交ぜた海苔(ひび)糊で台を作った。蕨(わらび)糊を使ったという話は聞いたことがない。のちに黄ボール紙に代えた。 
カルタの裏は、昔は黒だけだった。糊で煤(すす)を溶いた。後に赤裏も始めた。紅ガラで染めて柿渋で止めた。柿渋は六尺桶に三、四本あった。裏紙作りは難しく、天日干しだから雨が降りそうになると近所の人にも手伝ってもらって大急ぎで取り込んだ。礬砂引き(どうさびき)で色止めをした。 
上絵は膠(にかわ)入りの染料で描いた。顔料を使えばそんなことはないのだが、染料だと後になって色が飛んでしまい、膠の半透明な感じが残るようになる。馬楝(ばれん)で版下を刷ると、後はすべて手描きで彩色した。上の金色もそうだ。一日に百枚も描いていただろうか。 
断ちはすべて包丁でやっていた。ちょうど中華料理の包丁のような大きさと形のものであった。 
雇い人は三十人くらい居た。それと別に家族も全部で二十人くらい居て、朝食は全員で一緒に食べたから賑やかだった。 
 
<カルタの出荷先> 
黒札は、県北から青森県にかけて出荷した。八戸、三沢、野辺地、弘前、青森などが多かった。漁師と炭焼きの人が使っていたと聞く。 
花巻札は、宮城、秋田、岩手から福島あたりまで出荷した。青森は黒札が専門で花札は出荷していなかった。 
北海道に出したということは聞いていない。 
京都の花札に押されて販路は減る一方だった。また、黒札について、任天堂が真似をして製造、販売していたのは当時から知っていた。 
 
<やくざのこと> 
やくざの人の注文で特別の札を作った。本人がやってきて、ここに髪の毛を入れろなどと注文を付けた。できた札を高く引き取ったかどうかは知らない。 
 
<花巻にあった他のカルタ屋のこと> 
自分は知らない。 
 
<その他> 
黒札を豆札、馬札とも呼んだ。 
黒札の札の呼び方の中では、ピン、ジュウ、ウマ、キリ、タイコ、アカ、アオを憶えている。レンプというのは三のことだった。 
花札の呼び方もあった。桜の二十はオニザクラと呼び、オニ(松、桜、桐、坊主、雨)を五枚集めたのがオイランである。 
山形市にカルタ屋があったという話は聞いていない。酒田市にあったことは知っている。 
 

(三)花巻市内向小路の人々の聞き取り調査 

さらに、私は、昭和六十一年(1986)に花巻市を再訪して、市内向小路(現在の町名は桜町二丁目)の旧同心屋敷の人たちの話を聞いた。当時のメモをここに再現する。但し、姓名については、調査時には姓名をすべて聞いて記録してあるが、今回は姓のみの表記にした。 

 
(1)豊川氏宅:聞いていない。何も知らない。 
 
(2)三川氏宅:先々代の源治(明治二年(1869)没)がカルタの絵を描いていたとおばあさんに聞いたことがある。それ以外は知らない。 
 
(3)小川氏宅:知らない。 
 
(4)四戸氏宅:子どもの頃遊んだ記憶がある。遊び方は覚えていないが、正式のカルタ遊びではなかった。黒札は桐の箱に入っていた。 
 
(5)内形氏宅:昔作っていた。版木が残っていて、何に使うのか聞いたことがある。それも子どもの頃のことで、版木も捨てたし、何も残っていない。 
 
(6)岩間氏宅:知らない 
 
(7)漆沢氏宅:「ふだ」を作っていた。私は明治二十七年(1894)生まれで現在九十一歳だが、四、五歳の子どもの頃、亡くなった主人の実家で作っていたのを憶えている。 

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