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二 幸徳傳次郎「歌牌の娯楽」≪現代語訳≫


ひとりの少女に、正月は何が最も楽しいかと問うたら、歌がるたを取ることだと答えた。そうだろう。私も子どものころこれがとても好きで、兄に付き従い、姉を追いかけ、食事も睡眠も忘れて熱中したことがしばしばあった。そこで思う。歌がるたの遊戯はなぜこれほどに楽しいのかと。


多くの人が、歌がるたの楽しさは競争にあるという。そうだろう。だが世の中にある競争を見ると、大抵は、悲痛なことや労苦を伴うことが多いので、人は皆これを嫌がり、避けようとする。そうした中でただ一つ、歌がるたの競争ではこれを楽しむべしとされるのだが、それには理由がないことはない。歌がるたの競争は、様々な点で世の中の競争とは種類が異なるということである。


歌かるたの遊戯は競争の遊戯である。だがこの競争では、直ちに人生の最高理想が現実となる。それは何か、自由、平等、博愛である。

歌かるたの競争は自由である。他人の爲に役立たされるのではなく、身辺の境遇のために追い立てられるのではなく、進みたいと欲するから進み、止まろうと思うから止る。ただ自分一人を大事にして、縦横に遮るものがなく、真に個の自由を得るのではなかろうか。

歌かるたの競争は平等である。一たび席について遊戯に臨めば、そこには階級がなく、門閥がなく、金の力もなく、権勢もなく、兄弟、姉妹、親子、主人と客、雇い主と雇われ者の差別もなく、皆同等の立場に立ち、同等の權利をもち、遺憾なくその技能を伸ばし、その力量を競わせる。これは真に個の平等を楽しむものではないだろうか。

歌がるたの競争は一面においては多数の協同を意味する。皆が心を一つにしてお互いに結び合い、排除することなく、仲たがいなく、中傷なく、陰謀や悪賢いはかりごとなく、極めて公明、極めて正義の動きをして、強い者は弱い者を助け、知恵ある者はそうでない者を救い、勝負が決まればお互いに顔を見合わせて大声で笑う。無心に楽しみ、穏やかで、仲の睦まじさが見て取れる。皆とともに楽しむのは眞の博愛の心の発露ではないだろうか。


だから歌がるたが楽しいのは、ただ競争だからではなく、その競争が、その時その場で、一切の世俗の習慣、束縛、迷信の殻を脱ぎ捨てて、真に個の自由、平等、博愛を実現するからである。孔子が言うには、君子は争わない、あえて探せば射の競技であろう。この場合、競技の前に手を前に組んで挨拶してから射る位置に上り、射たら場を下りて杯を挙げる、これが君子の争いである。歌がるたの争いはまことに君子の争いである。真であり、善であり、美である。花のような、天使のような少女が正月で最も楽しいとするのにはこうした訳がある。


ああ、天下の競争というものを、ことごとく君子の争いにすれば、自由、平等、博愛であること、眞であり善であり美であることを歌がるたの競争のようにすれば、いかに人の生活、社会は楽しくなるであろうか。しかし見よ、人は生存競争のためにかえってその自由を束縛される。その平等を破壊される。その博愛の心を傷つけられる。歌がるたの競争では、少女もこれを楽しむが、生存の競争の悲痛と勞苦には、勇猛な孟夏でも賁育でも疲労して倦むせざるをえない。我ら社会主義者はいたずらに競争を排除するものではない。万民の生を全うさせようとするためにやむを得ないからなのである。


歌がるたを樂しむ少女よ、私もまた子どものころこれがとても好きで、兄に付き従い、姉を追いかけ、食事も睡眠も忘れて熱中したことがしばしばあった。だが今はこの楽しみをなくした。ああ、私は老いてしまった。顧みてしばし憮然とした気持ちである。

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