明治時代の都会には、繁栄と裏腹に貧困も集積していて、貧民窟と呼ばれる地域も多数生まれ、そこでも賭博は活発に行われていた。櫻田文吾は明治二十六年(1893)に大我居士の筆名で『貧天地餓寒窟探撿記』[1]を表してその状況を報告しているが、そこでは、「チーパー」賭博は詳細に紹介されているが花札には言及がない。松原岩五郎は同じく明治二十六年(1893)に『最暗黒の東京』[2]を表したがそこにも花札の記述はない。松原はまた明治三十年(1897)に乾坤一布衣名で『社会百方面』[3]を表し、そこには、横浜の居留地における中国人の「賭窩(とばく)」、とくに「規矩(ぶんまわし)」や足尾銅山における博徒の横行などについて記されているが、描写はやや抽象的で花札賭博への具体的な言及はない。この時期のルポルタージュとしては横山源之助の『日本の下層社会』[4]も有名であるが、ここにも花札賭博への言及はない。

花札は地方にも広まった。横山源之助は明治三十年(1897)の『毎日新聞』の論文で地方の小市町村での「花牌」の流行について、「実に地方に於て正月に入れば、花牌の流行、言語に絶するものあり。‥‥各家庭の屏風を立て籠めたる奥の室を覗(うかが)うを得ば、朦朧(もうろう)たる燭光の下に弄花(ろうか)の初り居らざる家はなからん。‥‥紳士とか有志者とか称する連中に、当時最も能く行わるる八八とかいうものに至りては実に沙汰の限りなり。‥‥八八の行わるる、啻(ただ)に有志の一部のみならず、官吏学校教員の間に於ても、今や盛んに玩(もてあそ)ばる、以て慷慨(こうがい)すべきことならずや」[5]と描いている。

この時期の東京での花札の売られ方について、泉鏡花はその作品「三枚続」[6]中で、下町の絵草子屋について興味深い描写をしている。「軒の柳、出窓の瞿麦(なでしこ)、お夏の柳屋は路次の角で、人形町通の唯(と)ある裏町、端から端へ吹通す風は、目に見えぬ秋の音信である。まだ宵の口だけれども、何となく人足(ひとあし)稀に、一葉二葉ともすれば早や散りさうな、柳屋の軒の一本柳に、ほっかりと懸って居る一尺角くらゐな看板の賽ころは、斜めに店の灯に照らされて、此方へは一が出て、裏の六がまともに見られる、四五軒筋違の向ふ側に、真赤な毛氈をかけた床几の端が見えて、氷屋が一軒、其には団扇が乗ってるばかり、涼さは涼し、風はあり、月夜なり」。この状況は画家の鏑木清方が描いた口絵で良く分る。ここにある看板の賽ころは「上方屋」が始めた、花と賽ころの販売店という宣伝である。こういう絵草子屋は明治三十年代(1897~1906)に廃れて新興の書店という店舗に代わったが、花札を販売するという伝統は引き継がれて、その後昭和後期まで、書店は花札、トランプを売るのが当たりまえで、花札を買う時にはまず近所の書店に行くのが通例であった。

花札は、新しい風俗・文化の題材として様々な方面に現れた。まず、花柳界などで、着物や帯の柄として用いられた。花札模様の着物を着ることが時代の先端を行くファッションであった。同じように、徳利や杯のデザインにも用いられた。それが遊興の酒席で話題を呼び、いっそう賑やかにするからである。花札の形状や図像は櫛やかんざしなどの女性のアクセサリーにも用いられた。また、マッチ箱やポチ袋も形態が似ているのでしばしば花札の図像をデザインに用いた。

花札は、歌舞伎の芝居でも新奇な風俗・文化として取り上げられた。明治十九年(1886)三月に「上方屋」を版元として出版された「花合四季盃」と題した二枚ものの芝居絵についてはすでに述べた。画工の豊原国周は、以前にも二度ほど花札を織り込んだ芝居絵を描いているが、「花合四季盃」はこの時期に東京の千歳座(現在の明治座)で上演された芝居に花札が取り上げられたことを描いたもので、絵の前景には市川九蔵の演じる小野道風と尾上菊五郎の演じるかん信が描かれ、背景に、十五枚の花札が舞っているという絵柄である。花札販売の公然化と大流行の兆しを早くも捉えた演劇人の才覚と、それを好機と見て自店の宣伝にいち早く利用するべく一流の浮世絵師の国周を起用した前田の才覚が光る。

明治十九年(1886)四月二十四日の『團團珍聞』で、山陽亭芸生は「過半以来其筋ニモオ気カ付カレタト見エ其禁ヲ解カレ花骨牌カ絵草子屋店頭青天白日ノ空気ニ遭フヲ得テ向フノ坊チヤンモ隣ノ阿嬢サンモソレ雨ニ柳ダヤレ青タンノ菖蒲ナドト公然玩弄スルノ有様トナレリ」と述べている。東京だけでなく、地方でも、たとえば明治二十年(1887)三月の群馬県の『群馬日報』にこんな記事がある。

「寄書 花あはせ流行 上毛 木崎 安済  此頃諸方に花あはせといふものが流行、此処や那処の御嬢さんや御新造方が寄ると触るとやらかし、菓子など取りやり楽しみ居れど、此分にて日に増し流行れば、果ては必ず金銭を賭るに至り査官の御厄介ならん好しや金銭をかけぬとも余り好き遊びでありませんから止めて貰ひたいものです、万一法網といふあみに罹れば其時こそ泣いても吠へても間に合ひません、世間の御嬢さんや御新造さん方、安済の言ふ事を御聞入あって他の遊をして下さいまし」。
加々吉板おもちゃ絵・
「志ん板花かるた」
辻岡文助板おもちゃ絵・
「四季花ヅクシ」
荒川板おもちゃ絵・
「四季花づくし」
三木伊作製・花札

大人の男女が花札の遊技に耽るのであれば、花札は明治の子どもの間でも流行した。大人の使い古した花札のカードを貰って子どもが遊ぶことも多かったであろうが、花札の販売が解禁されて遊技が自由になると児童玩具の業界もいち早くこれに対応して、一枚摺りのおもちゃ絵として花札が売り出された。明治二十一年(1888)に東京日本橋区吉川町の加賀屋・堤吉兵衛から出版された「加々吉版・志ん板花かるた」、東京日本橋区横山町の辻岡文助「四季花ツクシ」、や少し遅い時期の明治二十五年(1892)、東京日本橋区馬喰町の山口屋(錦耕堂)・荒川藤兵衛の「荒川板・四季花づくし」、明治三十一年(1898)に大阪市東区住吉町の三木伊作が出版した花札絵などがある外に、出版年も製作者も表記されていない非正規なものも何点かあり、さらに、日清戦争を機に軍人の人気が高まるとカードの中央に大きく卵型に軍人の絵姿を入れた「軍人花かるた」(仮称)も出されている。それは、同時期に売り始められた「西洋かるた」のおもちゃ絵とともに、絵草子屋などで子どもの人気を得た。

「軍人かるた」
藤本順三郎・
「四季のあそび幼稚すごろく」

また、明治二十八年(1895)に東京府浅草区瓦町の藤本順三郎から「四季のあ曾比幼稚寿語録」という美麗な双六が売り出されたが、それは「冨理多志」(振り出し)から十二コマ、「萩」「藤」「梅の花」「花桐」「寿々き」「青桐」「紅葉」「花菖蒲」「児ざく羅」「牡丹」「乱菊」「松の寿」と続いて「上り」となる構成で、各々のコマに、その花を背景にして子どもが遊技している姿が描かれている。こうした対応の早さは、解禁以前から花札が子どもの遊戯用品としても盛んに用いられていたという背景を想像させる。

下方屋・『實地経験花かるた必勝法』
下方屋・『實地経験花かるた必勝法』

花札の流行に伴い、その遊技法の教則本が数多く出版された。「上方屋」が販売促進で製作した小冊子についてはすでに触れた。花札業界では、このほかに、大阪の「土田天狗屋」が熱心で、明治二十五年(1892)に土田鶴松『花合八十八使用法』、明治二十七年(1894)に鞍馬山人『弄花憲法』、明治三十一年(1898)に土田鶴松『はちはち遊び独うらない』等の小冊子を次々と発行した。大阪の十二花堂も小冊子『花の志ほん』を添えた。京都の「玉田福勝堂」は近隣の「阪田金玉堂」とともに明治二十三年(1890)に和田和三郎『美よし野』を発行した。東京の「下方屋」も明治二十三年(1890)に高橋平三郎『実地経験花かるた必勝法』、明治二十四年(1891)に同『実地経験百戦百勝花札魔術秘法』を発行した。京都の「中尾清花堂」は少し遅れて明治四十年(1907)に浦田茂二郎『八々遊び花の志るべ』を発行した。

土田天狗屋・
『はちゝゝ独うらない』
十二花堂の小冊子・
『花のしほん』
中尾清花堂・
『八々遊び花のしるべ』

また、こうした花札屋の販売促進の小冊子だけではなく、一般の書籍でも健全な娯楽として紹介されるようになった。たとえば、大阪の「駸々堂本店」は明治二十一年(1888)に八八居士『花がるた使用法 一名八十八独案内』を発行し、明治二十五年(1892)に大阪の「郁文館」は弄花散士『百戦百勝八々秘伝』を、明治二十六年(1893)に東京の「博文館」は吟花嘯月桜主人『花遊の枝折一名かるた必勝指南』を、大阪の「佐藤豊造」は双井水癲粋士『座敷遊戯花の志を里』を各々発行した。また、明治二十七年(1894)に刊行された博文館編輯局編の『伝家宝典明治節用大全』[7]では、「○骨牌」の項目の筆頭に「花骨牌」があり、「八八花」の遊び方を説明しているが、手役は複雑で初心者には不適当ということで省略されている。地図製作で有名な「辻本九兵衛」は、明治二十三年(1890)に『花加留多・西洋加留多 獨稽古』、明治三十一年(1898)に『花かるた独けい古』(私家版)を表した。

郁文館・『百戦百勝八々秘傳』
博文館・
『花遊の枝折一名必勝指南』
辻本九兵衛・
『花加留多西洋加留多獨稽古』

[1] 櫻田文吾(大我居士)『貧天地餓寒窟探撿記』日本新聞社、明治二十六年。

[2]  松原岩五郎『最暗黒の東京』民友社、明治二十六年。岩波文庫、昭和六十三年。

[3] 松原岩五郎(乾坤一布衣)『社会百方面』民友社、明治三十年。『〔明治・大正〕下層社会探訪文献選集一』本の友社、平成十年。

[4] 横山源之助『日本の下層社会』、岩波文庫、岩波書店、昭和六十年。

[5] 横山源之助「『毎日新聞』掲載論文」『横山源之助全集』第一卷、明治文献、昭和四十七年。

[6] 泉鏡花『三枚続』春陽堂、明治三十五年。

[7] 博文館編輯部編纂『伝家宝典明治節用大全』博文館、明治二十七年、一〇九七頁。

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