最近、ネット・ニュースにこんな記事があった(下線は私が付けた)。

東京都内で10月6日、シンポジウム「韓国『徴用工』問題の真実」が開かれた。注目は、韓国・落星台(ナクソンデ)経済研究所の李宇衍(イ・ウヨン)研究員が動画で講演したことだ。李氏は、国連で「朝鮮人が奴隷のように使われたという主張はまったくのウソ」と発表した人物である。

 李氏は、徴用工は「合法的な戦時労働者」だった。基本的に賃金は成果給で、日本人より朝鮮人の賃金が高い場合もあったと説明した。

 そのうえで、「『労働環境においての民族差別』という主張は、多くの経験者の証言に反している」「反日主義的先入観に基づく主張は事実と合っていない」「生活はとても自由で、夜通し花札をしたり、仕事が終わると市内に出かけ、飲みすぎて次の日に出勤できないということもあった」などと解説した。

 ところが、韓国や日本の一部政党やメディアは「徴用工=奴隷労働」のようなイメージを吹聴している。

 李氏は「歴史的事実とまったく違っている。誇張を超えて歴史歪曲(わいきょく)、強く言えば『捏造(ねつぞう)』といえる」「(日本企業に支払いを命じた韓国最高裁の判決は)明白な歴史歪曲によって発生した、とんでもない判決だ」と断言した。

私は、以前から第二次大戦以前に植民地であった当時の朝鮮に「移出」(植民地に輸出したことを意味する法律用語)されていた「朝鮮花」のカルタ札を探しており、韓国に行く機会のある度に民俗博物館や骨董商などで探してきたが発見できなかった。「朝鮮花」は、日本国内で使われていたものと比べると安価な「切りっぱなし」の制作法で制作されており、図柄にも固有の特徴があるもので、現地朝鮮半島では「花闘(ファトゥ)」と呼ばれて広く愛好されていたが、長年の使用で消費され尽されて廃棄され、あるいは、1950年からの朝鮮戦争の混乱に巻き込まれて消失されたのであろう、今日の韓国国内ではもはや発見が困難である。私は、日本国内でも、第二次大戦以前から朝鮮に商品を出荷していたカルタ屋でこれについて質問し、また残品の有無も調査したがむなしい結果に終わった。

朝鮮花札・花闘(紙製、日本骨牌製、三福印、昭和前期)
朝鮮花札・花闘
(紙製、日本骨牌製、三福印、昭和前期)

ところが、福岡県内で既使用感の濃い日本骨牌製の「朝鮮花」を発見した。これは、徴用工であれ、自発的な労務者であれ、朝鮮の人が半島の「花闘(ファトゥ)」を福岡まで持参しで使っていたものと思われる。あるいは、カルタ屋が、貧しい徴用工をおもんばかって、安価な朝鮮向けの花札を福岡県内で朝鮮人向けに販売したのであろうか。いずれであれ、幻の「朝鮮花」が、朝鮮半島からではなく、日本国内で発見できたのだから大変に驚いたが、蒐集家としてはこの上ない幸運だと思っている。ただ、ここ数年、日韓両国政府は政治的なドタバタ劇に終始しており、それに便乗して騒ぐ者も日韓両国に多いので、それに巻き込まれたくないから発見をめだつように公表することを避けて秘蔵してきた。

歴史を振り返ると、世界各地で、過酷な環境に追い込まれた人々が、死のまぎわまでカルタ、トランプで遊技をしたという記録、あるいは手製のカルタ札が残っている。明治期以降、人買いに買われて東南アジア諸地域に移送され、花街の接待要員、売春婦として異国での軟禁生活を強制されていた日本人の「唐行さん」は置き屋で花札の遊技を行い、そこを現地事務所にした日本人顧客の貿易商人(後の三井物産や三菱商事の商社マン)もそこでこの遊技を憶えたことが多かったようである。第二次大戦中のアメリカで日系人が拘束されていたアリゾナ州のキャンプでも手製の花札があった[1]。ニューヨーク市には、アウシュビッツの犠牲者の追悼館があり、そこの展示品には、凄惨な遺品と共に毒ガス室に送り込まれたユダヤ人の手製のトランプがある。舞鶴市の「舞鶴引揚記念館」には、敗戦後モンゴルに抑留されていた日本人が作った手製の花札が保存されており、平成二十五年(2013)の第一回企画展で展示された[2]。シンガポールの刑務所には、戦犯裁判に引きずり出されて、何人もが絞首刑を言い渡されていた旧日本軍人、兵士、軍属が収容されていたが、彼らも手製の花札を作っており、今では私のコレクションにある。そして、シベリアに抑留されて過酷な環境下に置かれていた日本人の間でも手製の花札の遊技が流行し、中には、食事を賭けた勝負に大負けして三食分の絶食を余儀なくさせられて、餓死した者もいたそうである[3]。だから、福岡県内で発見された「朝鮮花」も、半島から自発的に渡航して労働者として厚遇されて自由時間の余裕があって遊んだのか、徴用工で過酷な強制労働で苦しみながら「地獄の慰安」として手にしたのかは軽々に判断できない。「夜通し花札をしたり」したから自由の身だったというのであれば、アリゾナ州の荒れ地に設置された日系人の強制収容所も、シンガポールのチャンギ刑務所も、モンゴルの過酷な抑留施設も、シベリアのバラックも、みんな自由の楽園になってしまう。これは自分の価値観、歴史観を花札に投影しているだけであって、花札を引き合いに出すのであれば、もっと慎重に史実を確かめてほしい。

米国抑留日系人制作花札(手製、アリゾナ州内収容所、1940年代前半、『尊厳の芸術』)
米国抑留日系人制作花札
(手製、アリゾナ州内収容所、
1940年代前半、
『尊厳の芸術』)
モンゴル抑留日本人制作花札(手製、1940年代後半)
モンゴル抑留日本人制作花札(手製、1940年代後半)
シンガポール抑留日本人戦犯制作花札(手製、チャンギ刑務所、1940年代後半)
シンガポール抑留日本人戦犯制作花札(手製、チャンギ刑務所、1940年代後半)

また、これと別に、私は、岩手県の地方花の歴史を調べたことがあり、現地花巻市の花札製造業者の家で、第二次世界大戦の敗戦直後には、朝鮮人が押しかけてきて、花札が出来上がるとすぐにひったくるように持って行ったという話を聞いたことがある。これも、戦争中の半島からの労働力の動員のなごりだが、花札の製造元まで来ていたのは、店屋で販売されるのが待ちきれないほど花札が好きだったからなのか、それとも生活が苦しくて、一種の脱税品になるが、骨牌税分の収入印紙を貼る前に買って、その税金分だけ安くしてもらうためだったのかは分からない。これも戦争中に岩手県内で働かされていた朝鮮の人たちの貧困な生活を思わせる興味深い話であるが、強制労働だ、搾取だ、いやそんなことはない自由な労働でそれなりの処遇を受けていた、というゴタゴタした論争に巻き込まれないように沈黙している。サイトには、「朝鮮人が買いに来た」としか公表していない。

このようなやや複雑な気持ちで、私は、冒頭のネットの記事を読んだ。私には、「生活はとても自由で、夜通し花札をしたり、仕事が終わると市内に出かけ、飲みすぎて次の日に出勤できないということもあった」という言葉のバックグラウンドになった往時の史実を知るすべがない。だから、実際のところはどうだったのだろうかという疑問を抱えたまま、消化不良気味にコレクションに収めている。朝鮮半島における花札の歴史については、韓国内で多くの人が言及しているが、当時の宗主国日本に逆移入された「朝鮮花」は、日韓両国にまたがる朝鮮人労働者の歴史を物語る好史料であり、秘蔵するままでよいのか、それで歴史への責任は果たせているのかという疑問は私の心の中でくすぶっている。


[1] デルフィン・ヒラスナ著、国谷裕子監訳『尊厳の芸術 強制収容所で紡がれた日本の心』、NHK出版、平成二十五年。

[2] 舞鶴市引揚記念館ホームページ。

[3] 帚木蓬生『やめられない ギャンブル地獄からの生還』、集英社文庫、集英社、令和元年、一四五頁。ただし、帚木はシベリア被抑留体験のある軍医からの聞き書きであり、一読者に過ぎない私は又聞きの又聞きであり、その内容の真偽を確認する史料を持たない。

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