十八世紀のロシアのカルタ
十八世紀のロシアのカルタ

江戸期の日本で奇妙な伝来を遂げたのはロシアのカルタである。日本はロシアとの交易は行っていなかったが、日本の領土の北辺ではシベリアへの東進を進めてきたロシアとの接触があり、とくに海難事故で漂流した日本人がロシア側に救助されてロシア領に上陸して、その地域でロシア人の日常生活に触れ、カルタの遊技を見聞した例がある。中にはロシアの首都に連れて行かれて見聞を広めた者もいれば、帰途に大西洋、太平洋を越えてきた者もある。これらの漂流談により、ロシアに日本のものとは違うカルタが存在することはわずかに伝えられていた。

漂流談が盛んになる時期よりも早く、日本がロシアという国を始めて意識したのが、ベーリング艦隊の第二次探検隊との接触であった。デンマーク人でロシア海軍に勤務していたベーリングは、ベーリング海峡を発見するなどの功績のあった第一次極東海域探検に次いで、1733年に第二次探検隊を組織し、そこに日本の沿岸調査を行う「日本探検のための特別分遣隊」を編成して、1738年になると同じくデンマーク人でロシア海軍軍人であったシパンベルグを隊長にして三隻の船をカムチャッカから日本沿岸に派遣した。この分遣隊にはトラブルがあったらしく、ワリトン大尉を指揮官とするナデジダ号は他の二隻と別行動を取り、1739年六月二十五日(和暦では元文四年五月二十六日)に単艦で安房国天津村の港に侵入した。当時の天津村は幕府直轄の海岸沿いの大きな港町であり、ナデジダ号はそのことを意識して近づいたものである。ワリトンは、船員二名に兵士六名をつけて上陸させ、新鮮な飲料水と野菜を得て持ち帰り、同日中に出港した。

この時の接触について、ロシア側と日本側の記録には大きな隔たりがある[1]。ロシア側は、この地の日本人が歓待して進んで水や野菜を提供したうえ、一同を大きな屋敷に案内して酒席を設けたことと、逆に日本人の代表者がナデジダ号を訪問して船上で歓談したことを記録しているが、日本側では、八名のものが不意に現れて、無言のうちにそこにあった井戸から飲料水を汲み取り、たまたまそこにあった大根五本ほどを取って立ち去ったと記録されている。ロシア側の記録のほうが正確で、日本側の記録は外国人との接触を禁じた幕府の指令に違反していないとの弁解のために事実をゆがめたものと思われる。そして、ロシア側は、別れに際して、歓待への謝礼であろうか、銀貨、ガラス玉とともに、紙幣のように見える紙札を置いていった。当時の日本はロシアという国の存在を知らなかったので、幕府は長崎のオランダ商館にこれらのものを送り鑑定を依頼した。その報告書によると、銀貨には「むすこうびあ国之文字」があり、紙札は「博奕のかるたにて御座候、異国大概右之模様候かるたに而可有御座候哉と奉存候、総而かるた之儀は其国々に而拵申候、尤も細工により大小御座候」[2]であった。つまり、ロシア船は、どういう意図か不明だがロシアのカルタのカード一枚ないし数枚を残していったのであり、日本がこの国を識別した最初の瞬間からそこにはカルタがあったことになる。ただ受け取った日本側ではこれを紙幣ではないかと考えてカルタとは意識されていなかったようであり、これはカルタの伝来と呼ぶほどではない日ロ交流史のエピソードに留まる。なお、長崎のオランダ商館長が「諸国では大体こういう模様(紋標のこと)のカルタでございます。総じてカルタは各々の国で拵えておりまして、細工の仕方により大小もさまざまでございます」と答えている。当時の日本人には何のことか理解ができなかったであろうが、世界のカルタ文化の一端を紹介したものとして面白い。


[1] 安部宗男『元文の黒船』、宝文堂、平成元年。

[2]『通航一覧』巻二百七十三。『通航一覧第七』、清文堂出版、昭和四十二年、八一頁。

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