京劇訪日団到着
京劇訪日団到着

波多野は、実はもう一度、梅蘭芳に会っている。それは、梅蘭芳が三度目の訪日を果たした昭和三十一年(1956)のことである。梅蘭芳を団長とするこの京劇代表団は、全国各地で熱烈に歓迎され、日中の友好交流の歴史に画期的な成果をあげたが、それはさておき、梅蘭芳と波多野の交流についてだけ書いておこう。

梅蘭芳は、このときの旅行の印象や感想を、後に『東遊記』[1]という一冊の著作にまとめた。原文は中国語であり、日本語訳が、昭和三十四年(1959)に、岡崎俊夫訳で、朝日新聞社から出版されている。その中に「旧友と会う」という一文がある。これによると、波多野は、梅蘭芳が日本に到着した次の日の五月二十七日に、待ちかねたように早速に宿舎のホテル・テート(現在のパレス・ホテル)を訪れている。梅蘭芳はこう書いている。

波多野乾一氏は、老北京(ラオベイチン)で、流暢な中国語を話されます。私の第一回・第二回の日本訪問のさい、いろいろと御援助をいただいた方ですが、現在は「産経新聞」で中国関係の社説を書いておられます。氏は「あなたの『舞台生活四十年』を読みました。第三集はいつ出ますか」などと聞かれました。私どもは昔話に興じ、氏は氏の書かれた『支那劇大観』を恵まれました。この老先生は中国劇のファンで、この道の通でもあります。氏は多くの北京の名優の芝居――楊小楼(ヤンシャオロウ)、龔雲甫(クンユンフー)、赧寿臣(ホーンユーチェン)ら老先生の演技を見ておられるので、そのころの話になりますと、表情たっぷり、いかにも楽しそうでした。私は、以前の二回の東遊のさいの写真や書付をはった資料を持ち出して、みなさんに、どなたが御存命かとおたずねしたのですが、波多野氏は、ひとりひとり説明して下さいました。御存命の方はすでに暁の星のようにわずかでした。

二人は、動乱期の中国で、お互いに若くして、政治と京劇と麻雀をともに語り合った親友であった。こういう二人が、第二次大戦後の十年以上にも及ぶ日中間の往来の途絶を乗り越えて、久しぶりに再会したのである。お互いの近況の報告や、積もる話しはきりがない。1920年代の北京、30年代の上海、不健康だが魅惑的だった中国社会での、革命、京劇、麻雀の思い出が、次々と口にされたであろう。それに、華やかだった梅蘭芳の過去二度の日本公演の思い出が重なる。

「再会した老朋友は瞬時にして往時に戻る」といわれる。この言葉さながらに、若い頃の気持ちに戻った二人は、ともに、邯鄲の夢の中にいたのであろう。随行員に、先生、お時間ですとせかされるまで。この年、梅蘭芳、六十二歳。波多野乾一、六十六歳。

波多野乾一の孫に、波多野真矢がいる。國學院大學、立教大学で活躍する、中国研究者である。立教大学のホームページで公開しているところによれば、波多野が京劇に目覚めたきっかけは、「祖父が中国に行っていたので、京劇の女優の写真などが身近に家にあった。その後、中国語を習い、留学した。そこで京劇を見て全く分からなかった。でも周りの観客は喝采をおくっているのに、それが分からないのが悔しかったから」ということである。このホームページに掲載されている波多野の講義「京劇の観客・・・『通』や『見巧者』の存在」は、京劇を支えている優れた観客たちに焦点を集めた研究の成果で、先端的で、現場性にも富んでいて、興味をそそられる。また、特筆されるのは、波多野が京劇を演じている場面の記録である。ホームページ[2]を見ると、昭和六十二年(1987)に京劇研究会で上演したときの波多野を見ることができる。

こういう孫娘の活躍を、波多野乾一も喜んでいることだろう。同じく、梅蘭芳の子孫も京劇の世界で活躍している。あの世で、波多野乾一と梅蘭芳は、麻雀卓を囲みながら、孫自慢をし合っているのであろうか。


[1] 梅蘭芳(岡崎俊夫訳)『東遊記』、朝日新聞社、昭和三十四年、六頁。

[2] http://home.hiroshima-u.ac.jp/cato/fotoKG2.html

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