もう一点補足したいのは、地方製の花札である。江戸時代には、賭博系のカルタは、西日本の「合せカルタ」や「かぶカルタ」にしても、東日本の「めくりカルタ」にしても、京都のカルタ屋の制作するカルタ札が良質で全国各地で使われていたが、江戸時代後期(1789~1854)、幕末期(1854~67)になると制作技術が拡散し、活発な需要に応じるようにさまざまな地方でも制作されるようになった。今日、文献史料ないし物品史料で確認できるところでは、北から、岩手県花巻市、山形県山形市、同県酒田市、東京都内、兵庫県淡路島、徳島県阿波町、岡山県倉敷市などで制作されており、このほかに、史料は残っていないが新潟県内などにもカルタ屋があったのではないかと推測されている。また、京都の赤田猩々屋の大正九年の商品目録には「北海花」「越後花」と並んで「越前花」が挙げられているが、この「越前花」には他に記録がなく、かるた札も残っていないので全く分からない。
なお、花札の地方札に関する研究はほとんど存在しない。ごく稀にこれに言及する場合でも、半世紀以上も以前の村井省三の指摘をうのみにして再現しているだけである。梅林勲は「地方の花札屋さん」[1] という論文を発表したことがあるが、扱っていたのは昭和後期(1945~89)、平成期(1989~2019)における地方の花札制作者の製品であり、ここで私が扱っている幕末期(1854~67)、明治前期(1868~87)、中期(1887~1902)の、骨牌税法施行以前の地方のカルタ屋に関する研究ではない。自分で発掘した史料を駆使したまとまった論述は、今回が初めてであろう。
こうした地方花札の事情の中で花巻市は、制作開始の時期が早かったことと、大いに繁昌して制作が活発であったことでとくに目立っており、また、伝承もよく残っている。ただ、この地方札については、わずかに昭和三十年代(1955~64)に市内の花札製造業者「鶴田」(その後廃業して岩手県盛岡市内に転居)が制作した機械印刷のかるた札が残されているだけで、古い時期の「花巻花札」はまったく残っていなかったので、その歴史が判明しなかった。
しかし私は、何回も花巻市に通って調査を進め、明治前期(1868~87)のものと思われる古い「花巻花札」 を発見して所蔵することができた。発見されたかるたは、縦五十七ミリ、横三十四ミリで、京都製の花札よりも三ミリ程度縦に長い。縦長なのは、江戸時代でも古い時期のかるたの特徴で、東北地方の地方花では山形花も同様に縦長で、この地方のかるた制作開始の時期の古さを物語っている。
このかるたの制作者は不明であるが、「柳に燕」の札に、枠に入った三文字があり、下の二文字はかろうじて、「仕入」と読める。上の一字はさらに読み取りが困難である。これを「山キ」と読めば、これは、花巻のカルタ屋の老舗、「やまき吉見」の制作した「花巻花札」ということになるが、この部分はむしろ「山ヨ」と読み取れるのであり、「山キ」や「山木」とは読み取りにくいのであって、「吉見」の花札とは思われない。
この花札のデザインは赤、黄、藍の基本三色にくわえて紫(いわゆる「青丹」、古い時期の呼称では「紫短」の部分の彩色であり、赤色の上に藍色の顔料の重ね塗りに見える)だけの色彩であるが、花札の地方札の中でもっとも彩色のデフォルメが強い「花巻花札」の特徴をよく備えている。省略しきった描線の伸びやかで美しいことは、ほかの「地方花札」にはない特徴である。私は、日本各地の「地方花札」のうちでも最も美しいかるたではないか、と思っている。この地の民芸品として優に鑑賞に堪える美しさといってもよい。
一般に、ほかの地方の花札では、明治中期(1887~2003)の「八八花札」の影響を受けて八月の満月の図像で空のほうが赤い。ところが花巻花札では「武蔵野」の時期に独自の着想に至ったのか、銀色の月でこそないが、満月の部分が真っ赤で、まるで太陽のようである。その他、菖蒲や柳の札にも、花巻花札の特徴がはっきりと出ている。なお、昭和三十年代(1955~64)の鶴田の「花巻花札」では、八月の薄のカス札で、空の部分に三日月が描かれているカードが一枚あるが、明治前期(1868~87)のものにはそれはない。越後の「地方花札」の一種、「越後小花」の場合も同じで、明治前期(1868~87)のかるたには二つ目の月がないのに昭和後期(1945~89)のものにはそれがある。
なお、昭和期の花巻花札には古歌が入っていない。和歌のない「武蔵野」ということになる。それは、この地方花札が、幕末期(1854~68)に誕生した時には古歌の入っているものであったのに、明治前期(1868~87)以降に、江戸、東京の関東花札の影響を受けて古歌を廃したことを意味する。明治中期(1887~1903)の花札販売の解禁、「八八花札」の大流行の中で、京都、大阪のカルタ屋は経営方針を大転換して、「武蔵野」型の伝統の図柄の花札から、古歌のない「八八花札」の図柄の花札の制作に踏み切り、それを全国的に売り出したので、花札の図像から和歌が消えていった。花巻花札の制作者は、全国的なこの変化に応じて自社の製品からも和歌を排除することができた。地方花札としては珍しい例であり、花巻花札の制作者の自己刷新力の高さが見える。
このほかに、花巻花札では、「藤に杜鵑」札の上部に月もなければ赤い雲もない。この点からも、制作された時期はそこに赤い雲のある横浜花札の流行する以前の明治初期(1868~77)と考えられる。八月の満月の札の月に赤い色が使われていることから、江戸時代にさかのぼることは難しいが、顔料の劣化がはなはだしく、紫色であるべき藤の花、菖蒲の花、牡丹、菊、紅葉の短冊がほとんど赤に近い色になっている。顔料の古びた感じからも明治初期(1868~77)のものであろうか。この花札は花巻市内の旧家で発見された。花巻市のカルタ製造業の老舗が制作し、花巻市内で購入されて使用されたものということになる。
[1] 梅林勲「地方の花札屋さん」『ギャンブリング*ゲーミング学会ニューズレター No.8』、大阪商業大学アミューズメント産業研究所、平成 十八年、一一頁。同「地方の花札屋さん(その二)」『ギャンブリング*ゲーミング学会ニューズレター No.9』、大阪商業大学アミューズメント産業研究所、平成十八年、一五頁。