こうしてドラゴン・カードはポルトガルの専売特許ではないということになると、あらためて関心を集めたのが南イタリア地方のカルタにも龍の絵が有ることである。ヨーロッパでは、1377年の記録[1]にアラビアからイタリアにカルタが伝来したという記事があり、それがカルタ史の始まりとされているが、ほぼ同じころにカルタはイベリア半島にも上陸している。そうすると、両者はいずれも龍の付いたカルタであったのではなかろうか。このもやもやした疑問に明快な解答を与えてくれたのが、1990年代に地中海のマルタ島で、龍の付いたカルタの古い版木とカルタの残欠が発見された[2]ことである。スペインのカタロニア地方、フランスのコートダジュール地方や南イタリア地方は、「ハウ」(棍棒)、「イス」(剣)、「コップ」(聖杯)、「オウル」(金貨)の四紋標のいわゆるラテン系のカルタが遊ばれている地域であるが、その中心にあるマルタ島でもこの種のドラゴン・カードが制作され、使われていたとなると、そこに浮かび上がるのはやはりアラゴン連合王国[3]のイメージである。これらの地域はいずれもこの王国の版図であり、この王国にアラビアからカルタが入り、それが王国の各地に広まったので、イタリアとスペインで同時期に伝来したと理解するのが妥当である。ドラゴン・カードは古くアラゴン連合王国一帯で栄えた遊技具だったのである。

インフェレール社のカルタの裏紙
インフェレール社のカルタの裏紙
(マルタ、18世紀)

こうした研究の進展の過程で、山口が注目したインフェレール社に関しても解明が進んだ[4]。インフェレール社のカルタとして山口が引証したUSプレイング・カード社のコレクションカタログにあるカードは、スペイン・ヴィトリア市のカルタ制作者、フルニエ社のカルタ・コレクションにある物と共に、後世になって絵札だけを取り上げた手描きのコピーであり、オリジナルな史料としてはフランス・パリの国立公文書館にある一組四十枚のカルタが重要である。このパリのインフェレール社のカルタには、「コップの四」に「A.INFIRRERA」と制作者名が入り、「オウルの二」に「1693」と年代が入り、「オウルの四」に当時のマルタ島のマルタ騎士団の団長の紋章が入っていて、制作地は不明だがマルタ島での使用向けに制作されたものと考えられていた。それが、マルタ島で、古い版木の絵札部分の残欠、十八世紀末のこのタイプのカルタ、「INFIRRERA」という制作者名の入った裏紙等が次々と発見されたことで、インフェレール社のカルタはマルタ島で用いられていただけでなく、同社がマルタ島に所在してこのカルタを制作していた可能性も強く意識されるようになった。そしてこの、インフェレール社タイプのカルタの図像は、確かにドラゴン・カードではあったが、日本に伝来したドラゴン・カードとは図像の様式に距離があった。


[1] Roger Tilley “Playing Cards ” Octopus Books, 1973, p.19. George Beal “Playing-Cards and Their Story” David & Charles, 1975, p.7. Eddie Cass “History of Playing-Cards” ICPS Journal Vol.7, No.3 (1979), p.68.

[2] Trevor Denning & Joseph Schiro “Maltese Dragon Cards” ICPS Journal Vol.30, No.1, (2001), p.33.

[3] アラゴン連合王国については、田澤耕『物語カタルーニャの歴史 知られざる地中海帝国の興亡(増補版)』中公新書1564号、中央公論新社、平成三十年。

[4] Trevor Denning “What are Infirrera Cards?” ICPS Journal Vol.16, No.3, (1988), p.71.

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