二 ポルトガルのカルタ (八)鎖国後のポルトガルのカード 寛永年間後期(1634~44)の鎖国の完成後は日本へのポルトガルのカルタの伝来は途絶えた。カルタの遊技は、しかしすでにその時までに日本社会で十分に人気を得ており、カードの制作方法も遊技法も伝来したカルタの文化から徐々に変化して日本化しており、元禄年間(1688~1704)など何回かの熱狂的な流行を経てしっかりと日本文化... 館長
二 ポルトガルのカルタ (七)日本語「カルタ」を無視した『日葡辞書』『羅葡日対訳辞書』 日葡辞書(慶長八年) 『日葡辞書』は、よく知られているように、十六世紀末期に来日したイエズス会の修道士たちによって編纂され、慶長八年(1603)に公刊された木版の日本語、ポルトガル語の辞書であり、約三万二千語を収録している。これは当時の日本語に関する第一級の史料であり、収録されている語を通じて当時の日本社会の諸事情が明... 館長
二 ポルトガルのカルタ (六)日本に伝来した「南蛮カルタ」の発見 令和三年に、「幻の南蛮カルタ」の探索は、新史料の発見に伴い、新たなステージを迎えることとなった。日本にカルタの遊びが伝来したのは戦国時代の十六世紀後半、ポルトガル船の来航の時期である。この遊技に用いる一組四十八枚のカルタ札は、以前はポルトガル船だから備品のカルタも当然にポルトガル製のものと考えられていたが、昭和後期にベ... 館長
二 ポルトガルのカルタ (五)ベルギー・アントワープ市でのドラゴン・カードの発見 アントワープのドラゴン・カード 1980年代にベルギーのアントワープ市で日本のカルタ史の理解に大きく影響する発見があった。十六世紀後半に建てられた古い教会の立て直しで建物を解体していたところ、壁紙の芯に古いカルタの印刷されたシート状の紙が再利用されているものが二枚発見されたのである。シートは三七・五センチ×二七センチで... 館長
二 ポルトガルのカルタ (四)ドラゴン・カードは地中海、アラゴン連合王国の文化 こうしてドラゴン・カードはポルトガルの専売特許ではないということになると、あらためて関心を集めたのが南イタリア地方のカルタにも龍の絵が有ることである。ヨーロッパでは、1377年の記録にアラビアからイタリアにカルタが伝来したという記事があり、それがカルタ史の始まりとされているが、ほぼ同じころにカルタはイベリア半島にも上陸... 館長
二 ポルトガルのカルタ (三)ドラゴン・カードはイベリア半島全域に広がっていた 「ハウのコシ」と「イスのコシ」(スペイン、バスク地方の祭風景) だが、周辺的な事実に関してはその後も研究の進展があった。まず、一九八〇年代に、スペイン、セルビア市にある旧植民地公文書資料館が所蔵するフロレス・カードへの研究者の関心が高まった。これは、スペインのカルタ屋、フランシスコ・フロレス(Francisco Flo... 館長
二 ポルトガルのカルタ (二)ポルトガルのドラゴン・カードのアジアへの進出 『ポルトガルのドラゴン』 (1973年刊) この山口の研究をさらに進めたのが1970年代のイギリスの研究者シルビア・マンとアメリカの研究者ヴァージニア・ウェイランドの研究であった。両名は、十六世紀、十七世紀の大航海時代に世界各地に広まったイベリア半島のカルタのうちでポルトガルのカルタのみが四枚のエースの各々に龍の絵が描... 館長
二 ポルトガルのカルタ (一)日本に伝来した「南蛮カルタ」はポルトガルのカルタ カルタは十六世紀にポルトガルの交易船の船員によって日本にもたらされた。だが、その事実はどこにも記録されておらず、また、江戸時代の鎖国の時期に長崎でオランダ人がもたらしたと誤解されるようになり、それは明治時代(1868~1912)、大正時代(1912~26)になるまで継続した。 こうした状況を改めさせたのは言語学者、文献... 館長