この時期に起きた衝撃的な事件が、現職の最高位の裁判官である大審院の判事たちが金銭を賭けて違法な花札賭博を行っていたと非難される司法官弄花事件であった。これは、そういう噂を耳にした大審院のある検事がそれを執拗に糾弾して画策し、それが新聞に漏れて明治二十五年(1892)四月三十日の『東京日日新聞』で「遂に世間の耳目を奪ふ能はず 司法高官の弄花事件 ポツリポツリと明るみにさらけ出さる」という見出しの下で報道されて騒ぎになったというものでる。容疑者の中に、数名の大審院判事とともに、彼らの同僚であり、前年の大津事件で毅然とした態度を採って喝さいを浴びた児島惟謙大審院長も含まれていたので騒ぎはさらに大きくなった。

ただ、当時の「刑法」では、賭博犯は現行犯に限って犯罪とされていたのであり、事後の噂話をもとに判事たちを事後的に賭博犯に問うことは不可能であった。政府は、児島の自発的な退職で騒ぎの幕引きを図ったが、児島は花札で遊んだことは認めたが金銭を賭けた賭博行為は否定して辞職を拒否した。そこで代わって用いられたのが大審院に特設された裁判官懲戒裁判所であるが、六月十七日に懲戒裁判の申立てがなされたものの児島らが金銭を賭けて花札を行ったという証拠は存在しなくて、当初から予想されたようにこの裁判は明治二十五年(1892)七月十二日に証拠なしで免訴の判決に終わった。児島はこの結果を得ると告発者の松岡康毅大審院検事総長と差違えで辞職してこの事件は幕引きとなった。

この事件については司法界内部での派閥争いに起因する陰謀事件であり、児島は司法官の身分保障のために抵抗したという政治的、法的な分析[1]も可能であるが、ここではそれには立ち入らない。この事件がもつ花札史上の意味合いは、解禁された花札であるが、それにまとわり着いている後ろ暗いイメージがこの事件で強く印象付けられたことである。司法部の最高位の人間が待合で芸者相手にこれを楽しみ、勝った者に褒美の金銭を与えていたので興味深いということではなく、最高位の人間でもこれで遊べば捕まるということの方が人々の脳裏に強く刻み込まれたのである。


[1] 小田中聡樹「司法官弄花事件」『日本政治裁判史録 明治・後』第一法規出版、昭和四十四年、一七六頁。

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