もう一点、明治後期に大人の女性向けに開発された「かるた」の例として、「家族合せかるた」がある。正確には、明治後期に、イギリスのHappy Familiesというゲーム専用の特殊なカードを模して、日本で「〇〇合せ」という特殊なカードが開発され、その中に、女性向けの物があったというべきであろう。

この「家族合せかるた」も、かつてほとんど研究の対象にならなかった。研究論文も存在せず、史料の蒐集もなかった。そのために古物商は、蔵買いでまとめて購入した古物の中の不要物をその家の近くの河原で廃棄して荷物を軽減させるときに「家族合せ」などの特殊なかるたは捨ててしまい、古物の市場にも登場しなかった。いわば、忘れ去られた過去の遊戯具であった。そこで私は、昭和末期(1985~89)から平成初期(1989~99)にかけてそのコレクションに取り組み、古物商には私が必ず購入するからと約束して、廃棄することなく市に出品することを依頼した。おかしなもので、一組五百円であっても買い手が想定できれば古物商は廃棄しないのであり、私の手元に何組かの「家族合せかるた」が集まり、集まることでかるたが自分を語り始めて、それを私から説明されて聞いて関心を持ったコレクターが徐々に増えて、このかるたはコレクターズ・アイテムの一つに成長した。最初の火付け役となった私としてはとても嬉しかったが、有名な画家や漫画家が描いたものが目の前で他のコレクターにさらわれたときは悔しい思いもした。

私は、その蒐集の成果を、日本人形玩具学会の学会誌『かたち・あそび』第四号で、「家族の肖像―遊びの世界における」[1]と題して発表した。日本で最初の研究論文であるという自負のもとで、それなりに力を込めて書いた。十九世紀のイギリスで、ふつうの町の普通の職業である、医者、塗装屋、大工、仕立屋、染物屋、パン屋、肉屋、八百屋、床屋、車屋などの家族、各々五人をカードにして、そのカードの組を競って集める遊技として成立したHappy Families が、明治後期(1903~12)に日本に入った。すると、立身出世主義の下で、総理大臣・國野礎、陸軍大臣・黒木桃太郎、海軍大臣・東郷武雄、代議士・日比谷集、大学教授・花輪高、金満家・金野成吉、医師・薮井竹庵、易者・岩津友当、巡査・民尾守、番頭・加世井升八の十家族、各々の家族が主人、妻、息子、娘、下女の五人、合計五十枚のカルタ札になって遊ばれたという、興味ある遊技伝来の実例である。

ただし、「家族合せ」には前史がある。何もないところにHappy Familiesが黒船来襲のように突然に入ってきたものではない。私の手元には、何組か、明治前期の「合せかるた」がある。その中で特に紹介したいのは、かつて名古屋の蒐集家、「うなゐ荘」のコレクションにあり、すでに紹介した「庄屋券」とともに現在は私の手元にある「芝居合せかるた」である。「うなゐ荘」のコレクションでは「しばいかるた」と命名されていたが、「合せ」かるたであることをはっきりさせたくて改名させていただいた。この貴重な史料を発掘されて保存された先人に対して、その命名権を侵すようで不遜な試みであったが、ここに広く紹介することで先人の功績に感謝しているのでお許しいただけるものと、これまた不遜にも考えている。これは、明治前期(1868~86)の代表的な歌舞伎役者十二名につき、各々の当り役四点を表す図像をかるたに仕立てた、十二紋標、四十八枚のかるたである。縦六・一センチ、横四・五センチの標準的なかるた札の形であり、収納箱は「うなゐ荘」によるもので、外側は緑色の布張り、内側は木版刷りの紙張りである。色調から判断すれば、このかるたに関連した同時代のものと思われるが、原状は不明である。また「彫工銀(彫工銀次郎か?」以外には文字がなく、「しばいかるた」が原題か「うなゐ荘」の考案かの判断はできない。

「しばいかるた」
「しばいかるた」
 
「團十郎」 「弁慶」「しばらく」「清正」「助六」
「高砂屋」 「日蓮上人」「おゆみ」「小梅」「正作」
「菊五郎」 「鼠小僧」「弁天小僧」「忠信」「五呂蔵」
「左團次」 「戸樫」「忠弥」「鬼小島」「権太」
「權十郎」 「信長」「梅王」「金太」「桂川」
「芝翫」  「五右衛門」「師直」「熊が谷」「道成寺」
「我童」  「宗貞」「勘平」「判官」「直輝」
「家橘」  「巴之丞」「弥助」「勝頼」「おみは」
「九蔵」  「松王」「光秀」「源蔵」「藤次」
「福助」  「桜丸」「おかる」「八重垣姫」「錦祥女」
「松之助」 「袖萩」「奥州」「おきん」「政岡」
「訥子」  「五呂太」「小山田」「若狭之助」「駒右衛門」
 

このかるたの遊技法は分からないが、いずれ「合せかるた」系のものであろう。「花合せかるた」のように、三名の遊技法で、同じ役者の札を釣り取って、たとえば「梅王」「松王」「桜丸」とか「信長」「光秀」「勝頼」といった組み合わせができたら役にしたのかとも思えるが、五、六人の遊技法で、同じ役者の札四枚を集めるものがあっても不思議ではない。そうだとすると、これは「家族合せ」の伝来以前に日本にあった「役者合せかるた」ということになる。

「新案日本名所合せ」
「新案日本名所合せ」

これに近いのが「名所合せかるた」である。これは明治中期に流行したものであるが、二種類あって、一つは観光の名所を書くジャンルで四枚ずつ集めたもので、手元には、東京の富田文陽堂、池村松陽堂、長野の金華堂書店が共同開発した「新案日本名所合せ」がある。縦八・三センチ、横三・一センチで、紺色の単色で印刷されている。以下の内容である。

 
「大洗ノ海濵(常陸)」「須磨浦海濵(播磨)」「舞子ノ濵(播磨)」「親不知海濵(越後)」
「神橋(備後)」「皇居二重橋(東京)」「錦帯橋(周防)」「御神橋(下野日光)」
「明石ノ海月(播磨)」「田毎ノ月(信濃)」「三笠山ノ月(大和)」「石山寺ノ月(近江)」
「石狩川(北海道石狩)」「信濃川(信濃ヨリ越後)」「利根川(上野ヨリ下総)」「天竜川(信濃ヨリ遠江)」
「尾掛松(信濃)」「唐崎一本松(近江)」「相生ノ松(播磨)」「三保ノ松(駿河)」 
「有馬ノ温泉(摂津)」「伊香保温泉」「熱海温泉」「草津温泉」
「春日神社(大和)」「靖国神社(東京)」「出雲大社(出雲)」「湊川神社(摂津)」
「偕楽園(常陸)」「兼六公園(加賀)」「後楽園(備前)」「日比谷公園(東京)」
「養老ノ瀧(美濃)」「那智瀧(紀伊)」「布引瀧(丹後)」「華嚴瀧(下野)」
「善光寺(信濃)」「法隆寺(大和)」「久遠寺(甲斐)」「三井寺(紀伊)」
「御嶽山(信濃)」「新高山(臺湾)」「富士山(駿河甲斐)」「浅間山(信濃)」
「諏訪湖(信濃)」「猪苗代湖(岩代」」「琵琶湖(近江)」「洞爺湖(胆振)」
「櫻嶋(薩摩)」「松嶋(陸前)」「宮嶋(安藝)」「江ノ嶋(相模)」
「小金井ノ櫻花(東都)」「吉野山ノ櫻花(大和)」「隅田川ノ櫻花(東京)」「月ケ瀬ノ梅花(大和)」
「名古屋城(尾張)」「姫路城(播磨)」「平安城(京都)」「大坂金城(大坂)」
   
「地理教育日本名所合せ」
「地理教育日本名所合せ」

一見してわかるように、ここにはまだ近代的な地理の考え方が貫かれてはいない。もう一種類のものは、東京の日吉堂が発行した「地理教育日本名所合せ」である。こちらは、まだ江戸時代の街道別の編成であるが、学校教育の地理と平仄が合っている。札は十紋標、各紋標が五枚で、合計五十枚構成である。縦九・五センチ、横三・三センチで、橙色の単色で印刷されている。以下の内容である。

 
「北海道」 「札幌」「函館」「幸枝(枝幸?)」「小樽」「室蘭」
「東山道」 「青森」「仙臺」「前橋」「長野」「大津」
「東海道」 「東京」「横濱」「静岡」「岡嵜」「名古屋」
「北陸道」 「新潟」「富山」「金澤」「小濱」「敦賀」
「畿内」  「京都」「宇治」「奈良」「大阪」「堺」
「山陽道」 「赤穂」「姫路」「岡山」「廣嶋」「下ノ関」
「山陰道」 「舞鶴」「豊岡」「福知山」「鳥取」「米子」
「南海道」 「和歌山」「徳島」「丸亀」「高知」「松山」
「西海道」 「門司」「大分」「長崎」「熊本」「鹿児嶋」
「臺灣」  「臺北」「基隆」「嘉義」「打拘(後に「高雄」)」「臺南」
   

明治三十年代(1897~1906)の「名所合せかるた」は、この他にも何点かある。「地理教育名所合せ」は構成も「家族合せ」と同じであるが、縦に細長い形がそっくりで、札の上部に図像を配している点も似ており、私は、イギリスではかるた形であったHappy Familiesが日本に入って細長い形になったのは、「名所かるた」の影響であろうと思っている。「名所かるた」は、まだ近世の名所案内の世界を抜け切れていない。

「教訓東京名所かるた」
「教訓東京名所かるた」
東京名所かるた
東京名所かるた
「新案日本名所かるた」
「新案日本名所かるた」

こうした前史があったので、「家族合せ」は比較的にスムースに日本に受け入れられた。今、ここで、「家族合せ」に関する四半世紀前の論文を再現するスペースはないのでごく簡単に趣旨を説明すると、「家族合わせ」は日本社会での古い「大家族」構成が、明治三十年代(1897~1906)の産業化、都市化の中で、東京や京阪神に大都会の「核家族」構成の家庭が生み出される時期に伝来し、イギリスの一般家庭の「核家族」構成をそのまま受け継いでいたが、その後に、立身出世の日本型核家族構成という和洋折衷の奇妙な理想像を提示することとなった。各々の家族では家業の継承が当然視され、五十歳代の家長の男性、専業主婦の女性、二十歳代の息子と娘、朴訥(ぼくとつ)な下女で構成される。この核家族が日本の近代化の象徴であったのだ。

日本に伝来直後の「家族合せ」の実例はよく分からないが、手元にあるものでは、明治三十八年(1905)に東京市神田區橋本町の久保田長吉から発行され、和洋かるたの卸、小売りを営んでいた「中方屋」で販売されていた「家族合せ骨牌」が、発行年が明確で参考になる。縦九・〇センチ、横三・四センチで、上部に多色刷りの図像がある。以下の内容である。

「家族合せ骨牌」
「家族合せ骨牌」
「家族合せ骨牌」収納箱
「家族合せ骨牌」収納箱
 
「陸軍大将」 「大山 桃太郎」「妻」「息」「娘」「馬」
「海軍大将」 「日本 武雄」「妻」「息」「娘」「馬」
「ドクトル」 「バッカート エバール」「妻」「息」「娘」「馬」
「大學教授」 「鼻野 高」「妻」「息」「娘」「馬」
「番頭」   「寝坊八」「妻」「息」「娘」「馬」
「金貸」   「欲野 深」「妻」「息」「娘」「馬」
「受負師」  「胡麻尾 摺道」「妻」「息」「娘」「馬」
「大工」   「浮世 夢助」「妻」「息」「娘」「馬」
「八百屋」  「南瓜助」「妻」「息」「娘」「馬」
「百姓」   「田吾作」「妻」「息」「娘」「馬」
   

また、参考までに、明治四十年刊の松浦政泰『世界遊戯法大全』に掲載されているものを、製作者などの表記はないが、引用しておこう。

 
「醫者」 「薮井竹庵」「妻」「子息」「娘」
「繪師」 「狩野」「妻」「子息」「娘」
「大工」 「鋸吉」「妻」「子息」「娘」
「仕立屋」 「縫次」「妻」「子息」「娘」
「染物屋」 「赤太郎」「妻」「子息」「娘」
「パン屋」 「粉六」「妻」「子息」「娘」
「肉屋」 「骨内」「妻」「子息」「娘」
「酒屋」 「呑助」「妻」「子息」「娘」
「八百屋」 「芋兵衛」「妻」「子息」「娘」
「床屋」 「櫛蔵」「妻」「子息」「娘」
「車屋」 「早作」「妻」「子息」「娘」
  

この時期に、この市場に熱心に参入したのが、東京市浅草区旅籠町の「東京萬綱商店」石橋綱吉とやはり東京の斎藤盛文堂である。前者は「新案出世競家族合」を発売したが、ここでは、「総理大臣」「陸軍大臣」「海軍大臣」「代議士」「医師」「大学教授」「金満家」「番頭」「易者」「巡査」の十家族になった。以前のものにあった市井の普通の職業人は消えている。また、核家族での五人目の札が、「馬」から「下女」に代わっている。「大工」「八百屋」「百姓」などの家族に「下女」は奇妙だったが上昇志向をはっきりさせた家族に変更したので「下女」が使えたのであろう。そして、この上昇志向を一層はっきりさせたかったのか、この会社は表題に「出世競」を入れて「新案出世競家族合」とした。一方、斎藤盛文堂は、「家族合せ」以外にも「歴史合」や「おとぎ合」などを発行して、この系統の遊戯具の幅を広めた。

とはいえ、明治後期(1903~12)には、まだまだ旧来の大家族構成も盛んであった。「家族合せ」の世界にも、そういう例がある。雑誌『少年』の明治四十三年(1910)新年號の付録「新案ポンチカルタ」を見てみよう。それは、紋標「春」が軍人家族、「夏」が実業家家族、「秋」が商人家族、「冬」が農民家族で、各々が八枚構成、合計で四十八枚の「家族合せ」である。

「新案出世競家族合」
「新案出世競家族合」
「歴史合」「おとぎ合」
「歴史合」「おとぎ合」
「新案ポンチカルタ」
「新案ポンチカルタ」
 「春」 「父:春山昇」「母:春山トビ子」「長男:春山跳太郎」「長女:春山ヘソ子」
「次男:春山轉太」「次女:春山トン子」「三男:春山凸坊」「三女:春山チビ子」
「春山家下男:權助」「春山家下女:お鍋」「春山家飼犬:ブル」「春山家飼猫:アカ」
 「夏」 「父:夏川泳」「母:夏川シワ子」「長男:夏川清」「長女:夏川イモ子」
「次男:夏川運助」「次女:夏川アメ子」「三男:夏川有平」「三女:夏川ハネ子」
「夏川家下男:呑兵衛」「夏川家下女:おデコ」「夏川家飼犬:ペロ」「夏川家飼猫:トラ」
 「秋」 「父:秋月照兵衛」「母:秋月オカメ」「長男:秋月禿蔵」「長女秋月團子」
「次男:秋月煎平」「次女:秋月リン子」「三男:秋月タコ坊」「三女:秋月マメ子」
「秋月家下男:骨平」「秋月家下女:オサツ」「秋月家飼犬:ムク」「秋月家飼猫:ミケ」
 「冬」 「父:冬田寒平」「母:冬田オワン」「長男:冬田呑蔵」「長女:冬田お臼」
「次男:冬田變太」「次女:冬田オヒツ」「三男:冬田凹坊」「三女:冬田カビ子」
「冬田家下男:凹助」「冬田家下女:オノロ」「冬田家飼犬:ヤロ」「冬田家飼猫:黒」
 

明治後期(1903~12)の日本では、農村中心の「大家族」と都市中心の「核家族」がほぼ同数で並立する社会になっていったが、「家族合せ」は、イギリス型の自由で愛情にあふれた、経済的に自立した街の「核家族」家庭の夢をいち早く日本中にばらまくという効果も生んだ。そして、大正時代(1912~26)になり、そういう生活が実現するようになると、竹久夢二、蕗谷虹児、昭和前期(1926~45)になると高畠華宵のような絵師が、すでに実現した先端的な「核家族」での少女、若い女性の、解放されて自由な、美しい絵姿を抒情的に描いて人気を得た。同じように、「家族合せ」も立身出世主義から逸れて、少しずつ現実化し始めた都市型の中産家庭の実像に近づき、描かれる家族も普通に市井で見られる商業の者になった。時代の最先端を行く飛行家や映画スターのほかに、會社員、詩人、音楽家、画家、小説家などが加わり、両親は五十歳代から四十歳前後に若返り、子どもたちは小中学生が増えた。「下女」は「犬」にとってかわられた。また、両親の若返りに伴い、祖父母の処遇が問題になり、「女中」「馬」「犬」の代わりに、五人目に「おじいちゃん」が現れることもあった。

「福合セ」
「福合セ」

「家族合せ」の遊戯具としての特徴の一つが、多彩なバリエイションである。十ないし十二紋標で、一紋標が四枚ないし五枚という構成であれば、図柄は比較的に自由に決められる。そこで、おとぎ話や最新型の交通機関、またスポーツなど、子どもの興味を引きそうな図柄のものが続々と考案されることになる。ここでは、大正年間の「福合セ」を紹介しておこう。これは、十二紋標、各四枚、合計四十八枚の構成である。七福神、「大黒」「蛭子」「布袋」「福禄」「毘沙門」「寿老」「辨天」に加えて、「寶船」「いなり」「福助」「おかめ」と続き、最後の紋標が「ビリケン」である。ビリケンはアメリカ生まれの福神で、日本には明治四十二年(1909)頃に伝来し、その後大正期に爆発的な人気を得た。よくキャラクターものの第一号として紹介されているが、これを組み込んだところに、新しい文化を受け止めようとする工夫がある。

「新案運動合」
「新案運動合」

そして、大正後期から昭和初期にかけて、アマチュアスポーツが盛んになった。それを早速に取り入れたのが「古池」発行の「新案運動合」である。この時期にどのようなスポーツが好まれ、またそのスタイルやコスチュームはどのようなものであったのかを知るのに好都合なのでここに紹介する。登場するのは、「ゴルフ」「テニス」「フートボール」「野球」「水泳」「ボート」「鎗(ヤリ)投」「砲丸投」「棒高跳」「マラソン」で、各々に「壹」から「五」までがある。この他に、「審判官」と「優勝旗」が一枚ずつある。これを収める紙箱の上面には野球で「KEIO」のバッテリーが描かれている。

「陸海軍人合」
「陸海軍人合」
「新案玩具軍人合せ」
「新案玩具軍人合せ」
「四大強國軍人武器合セ一名數字遊び」
「四大強國軍人武器合セ
一名數字遊び」

また、「軍人合せ」も人気商品であった。日露戦争後の軍事大国日本をそのまま写した陸海軍の軍人の階級を表すものもあるが、大正期には、世界の列強の一角に座を占めたことへの誇りと、第一次世界大戦で登場した飛行機、タンク、毒ガスなどの新兵器への興味を率直に表すものも登場した。

「家族合セ」
「家族合セ」

家族合せに戻ろう。この時期の代表例として、東京市神田區東福田町の金井信生堂のものを紹介しておこう。この店は、イロハかるた類の発行で有名店で、同店の「王様カルタ」の目録を見ると、「お笑ひカルタ」「コドモカルタ」「童謡唱歌」「歴史カルタ」「日本一周旅行カルタ」「ひらがな犬棒」「團子串助」「オトギカルタ」「日本の兵隊」「ナカヨシカルタ」「優等生カルタ」「スポーツカルタ」「幼兒カルタ」「カタカナ犬棒」「正チャンカルタ」「兵隊サン」「學校カルタ」「ネズクロ聯隊」「ミッキー大活躍」「ドラクロ大将」「幼女カルタ」「ドウブツカルタ」「ニコニコカルタ」「修身カルタ」「算術カルタ」「讀方カルタ」「一年生カルタ」「理科カルタ」「地理カルタ」「國史カルタ」と多彩である。大手のカルタ製造業者の観点がどういうものであるのか、それを通じて、昭和前期(1926~45)の社会の風潮がどう理解されるのか、何はともあれ見てみたい。

 
「軍人」   「大和武夫」「妻」「息」「娘」「犬」
「ドクトル」 「薮井竹庵」「妻」「息」「娘」「犬」
「教師」   「鼻賀高三」「妻」「息」「娘」「犬」
「金貸」   「欲野深」「妻」「息」「娘」「犬」
「番頭」   「朝野寝坊八」「妻」「息」「娘」「犬」
「八百屋」  「薩摩芋助」「妻」「息」「娘」「犬」
「百姓」   「野呂間田五作」「妻」「息」「娘」「犬」
「巡査」   「石部金吉」「妻」「息」「娘」「犬」
「詩人」   「星戸菫」「妻」「息」「娘」「犬」
「會社員」  「灰殻木戸郎」「妻」「息」「娘」「犬」
   

このかるたの特色は、なんといっても「詩人」と「会社員」の登場である。後者は理解できるが、前者は本当にこれが家業になったのか疑問であるが、ここに製作者の夢が投影されていると考えると興味深い。他方で、「陸軍大将」や「海軍大将」という日常で見かけない職業の人は消えて、「軍人」というごく平凡な姿で残っている。「大学教授」も市井の「教師」になっている。「八百屋」や「百姓」にも一応姓がついている。要するに、イギリスのHappy Familiesの原型に近づいているのであり、大正、昭和初期の社会の雰囲気をよく示している。

また、大正十年(1921)に「メートル法度量衡法」が制定されると、それの啓発のために東京の神田區昌平橋角の昌林堂書店は、「メートル法奨励家庭教育玩具」としての「買物合せ」を発行した。これは「三布布團」「一ツ身着物」「燃料品」「日用品」「乾物類」「粉類」「野菜類」「飲料品」「酒類」「フロックコート」「腹合女帯」「砂糖類」「ツメ襟」「肉類」「背廣」「油類」「四ツ身着物」「男物羽織」「菓子類」「女物着物」の二十紋標、各々が三枚組で。合計六十枚のかるたである。以下の内容である。明らかに本格導入したメートル法の計測の仕方を教育するための教材で、もはや遊戯具としての楽しさは失われているが、使われる単位ごとの数量が妙にデコボコしていて、会得には時間を要しそうである。

「メートル法奨励家庭教育玩具・買物合せ」1
「メートル法奨励家庭教育玩具・買物合せ」1
「メートル法奨励家庭教育玩具・買物合せ」2
「メートル法奨励家庭教育玩具・買物合せ」2
「三布布團」 「綿 四キロ五百グラム(一貫弐百匁)」「銘仙表地 十メートル(鯨約二丈八尺)」
「糸 十五グラム(四匁)」 
「一ツ身着物」 「錦紗表地 四メートル五デシ(鯨約一丈二尺)」「モミ裏地 三メートル(鯨約八尺)」
「縮緬裾廻シ 一メートル八デシ(鯨約五尺)」
「燃料品」 「石炭 六十キログラム(百斤)」「炭 十九キログラム(約五貫)」
「コークス 三十キログラム(五十斤)」
「日用品」 「白米 十八リットル(約一斗)」「醤油 二リットル(約一升一合)」
「味噌 一キロ五百グラム(四百匁)」
「乾物類」 「鶏卵 三キロ七五〇グラム(一貫目)」「鰹節 三百グラム(八十匁)」
「昆布 六百グラム(百六十匁)」
「粉類」   「パン粉 四百五十グラム(百二十匁)」「サラシ餡 三百グラム(八十匁)」
「小麦粉 三キログラム(八百匁)」
「野菜類」 「ソラ豆 二リットル(約一升一合)」「ジヤガイモ 三キロ七百五十グラム(一貫)」
「甘藷 十五キログラム(四貫)」
「飲料品」  「コーヒー 四百五十グラム(百二十匁)」「茶 六百グラム(一斤)」
「紅茶 九百グラム(二ポンド)」
「酒類」  「葡萄酒 二リットル(約一升一合)」「味醂 一リットル(五合五勺)」
「酒 十八リットル(約一升)」
「フロックコート」 「縞ラシャズボン 一メートル三デシ(約一ヤール三分)」「黒シュス裏地 
三メートル七デシ(四ヤール)」「黒メルトン上着 二メートル三デシ(約二ヤール五分)」
「腹合女帯」  「帯心 四メートル(鯨約一丈一尺)」「絞リ片側 三メートル八デシ
(鯨約一丈)」「黒シュス 三メートル八デシ(鯨約一丈)」
「砂糖類」 「角砂糖 六百グラム(一斤)」「氷砂糖 三百グラム(半斤)」「白砂
糖 一キロ二百グラム(二斤)」
「ツメ襟」 「アルパカ裏 九デシ一センチ(約一ヤール)」「黒ラシャ 二メートル三デシ
(約二ヤール半)」「シン 九デシ一センチ(約一ヤール)」
「肉類」 「鶏肉 三百グラム(八十匁)」「ハム 一キロ五百グラム(四百匁)」
「牛肉 六百グラム(百六十匁)」
「背廣」 「縞ラシャ 二メートル八デシ(約三ヤール)」「シン 一メートル四デシ
(約一ヤール半)」「アルパカ裏 一メートル四デシ(約一ヤール半)」
「油類」 「石油 二リットル(約一升一合)」「胡麻油 一リットル(約五合五
勺)」「揮發油 二デシリットル(約一合)」
「四ツ身着物」 「新モス裏地 五メートル(鯨約一丈三尺)」「モスリン表地 六メートル五デシ
(鯨約一丈七尺)」「無地モス裾廻シ 一メートル八デシ(鯨四尺八寸)」
「男物羽織」 「羽二重裏地 四メートル五デシ(鯨約一丈二尺)」「黒羽二重表地 十一
メートル(鯨約三丈)一反」「襟心 二メートル三デシ(鯨約六尺二寸)」
「菓子類」 「チョコレート 三百グラム(八十匁)」「ビスケット 九百グラム(約二
ポンド)」「ドロップ 四百五十グラム(約一ポンド)」
「女物着物」 「御召表地 十一メートル(一反鯨約三丈)」「モミ裏地 七メートル五デシ
(鯨約二丈)」「錦紗裾廻シ 三メートル(鯨約八尺)」
 


[1] 江橋崇「家族の肖像―遊びの世界における」『かたち・あそび』第四号、日本人形玩具学会、平成七年、二〇頁。

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