鳥さし
鳥さし

「鳥刺し」も、当初からそれ専用のかるた札を用いる遊びであった。一組のかるた中には、「殿様」(「若様」とも)、「用人」、「鳥刺し」の人物札三枚と、「鳥類」 の「鶴」「雉子」「雁」「鴨」「鶉」「鳩」などの札五、六枚があり、この遊びに加わるものに、人物札と鳥札をよく混ぜて、一人一枚ずつ配る。明治中期(1887~1902)の大田才次郎『日本全国児童遊戯法上巻 東京京都大坂三都遊戯』中の東京の遊戯法によると、「殿様」を引いた者がまず「用人、参れ」といい、「用人」を引いた者が前に出て「ヘイ、ヘイ、ヘイ」と言う。殿様がたとえば「エー今日は日柄がよいから鶴を捕って参れ」と命じ、「用人」は「ヘイヘイ」と応じて他の者のほうに向きを変えて「鳥刺し参れ」と言う。そこで「鳥刺し」が「ヘイヘイ」と応えて進み出ると、「今日は日柄がよいから鶴を捕って参れ」という。「鳥刺し」は「ヘイ、ヘイ、ヘイ」と言って、鳥を引いた者たちをよく見て、だれが鶴の札を持っているのかを当てる。鶴を引いていた者は、自分がそうであることをなるべく気づかれないように、素知らぬふりの動作し、他方で、他の鳥を引いていた者は「鳥刺し」が迷うようにわざと動揺したふりをしたりする。そして、「鳥刺し」が「鶴はここでござりまする」と言って一人を指名する。当たれば「鳥刺し」は「鶴」の札を受け取って用人を通じて殿様に献上し、次の鳥の御用を受ける。用人も同じである。これを繰り返してすべての鳥を捕らえたときは褒美、外せば罰ということになる。

「新板鳥さし」
「新板鳥さし」

大田の記録は、昭和後期(1945~89)の幼時に私自身が遊んだ時のもっと芝居がかった所作をするのが楽しかった記憶とは所作やセリフに多少の違いがあるが、私の記憶もいい加減なものであるからそれは無視しよう。この「鳥刺し」についても、江戸後期(1789~1854)ないし幕末期(1854~67)の大人用の精巧で上手(じょうて)のものがある。百人一首のかるた札程度の大きさであり、もともと、蒐集家「うなゐ荘(遠藤武)」が所蔵し、札に痛みがあったが丁寧に修繕して保存したもので、出自はお座敷での遊戯具だったことが分かる。今は私の手元にあるが、発見、修理、保存してくれていた先人の「うなゐ荘」に感謝しつつここに公開する。また、明治前期(1868~86)の、子ども用の安価で粗末なものもあるので、これも子どもの遊戯の世界に降りたことが分かる。

茶ぼうず(幕末期、作者不明)
茶ぼうず(幕末期、作者不明)
(上段右より:おちゃぼうづ、をさんどん、
まつ、おこぞう、ごんすけ。
下段右より:たけ、うめ、あき、なつ、はる)

これと同工異曲なのが、「茶ぼうず」や「六歌仙」である。「茶ぼうず」では、香蝶楼国貞画の「源氏茶ぼうず」がある。「とのさま」「奥方」「若君様」のほかに、「おめかけ」「お茶の局」「御茶坊主」「中老」「お小姓」「おぼうさん」「おさん」「ごん助」「こぞう」「御近所」がいる。また、東京中野区の区立歴史民俗資料館蔵で、画工不明の幕末期の「お茶ぼうず」は、使用人の「おさんどん」「おこぞう」「ごんすけ」「おちやぼうず」と、女児の「はる」「なつ」「あき」「まつ」「たけ」「うめ」である。このうち女児の「まつ」は唯一羽織を着ていて座布団上に座っているので、彼女は主家のお嬢さんであろうか。一方、明治前期の歌川芳邨画の「鳥さし御茶坊主」では、「おじやうさん」「おぼうさん」「おつるさん」「お部屋さん」「おまつさん」「おたけさん」「おうめさん」「お茶坊主」である。遊戯法は「鳥刺し」に似ているものと推測されるが詳細は不明である。

「風流源氏茶ぼうず」
「風流源氏茶ぼうず」
歌川芳邨(上二段・鳥刺し、下二段・お茶坊主)
歌川芳邨
(上二段・鳥刺し、
下二段・お茶坊主)
「新板六哥せん」
「新板六哥せん」

「六歌仙」は六枚一組で、紋標「蛇」が「喜撰法師」と「大伴黒主」、「蛙」が「在原業平」と「文屋康秀」、「なめくじ」が僧正遍昭」と「小野小町」である。「在原業平」を引いた者が「小野小町」を探して「喜撰法師」を当ててしまうなどの笑いが生じるお座敷遊戯である。これも明治前期(1868~86)には子どもの遊戯具に下げ渡されて、子ども向けの粗略なものが製作されている。

以上のように、明治時代の人々は、江戸時代から伝来したゲーム・カードの遊戯を大いに愛好したのであるが、これは懐古趣味ではなかった。文明開化の世の新しい流行もいち早く遊戯かるたの世界に登場した。その一例として、明治二十三年(1890)に「やまと新聞」が出した「風船かるた」をみてみよう。

風船かるた(梅堂國政、やまと新聞社、明治23年)
風船かるた(梅堂國政、
やまと新聞社、明治23年)

「ふうせんかるた」は、西洋から伝来したばかりの新風俗、人々を大いに驚かせた「気球」を取り上げたかるたである。かるた札は全部で八枚であり、気球につかまって空を飛ぶ、ベレー帽をかぶった洋装の男性を描いた「気球に男性」の絵札一枚と、「丸の内」「上野」「浅草」「芝」「隅田川」「根岸」「横濱」の地名と風景画の入った、東京、横浜の新名所の絵札七枚で構成されている。その遊戯法は「風船かるた取方」で次のように説明されている。

此取方は鳥さしの如くにして、風船に當(あた)りし人はいづかたにても降(くだ)らんと思ふかるたの地名を指(さ)し、其繪を持(もち)たる人を當(あて)るなり。過(あやま)つて隅田川へ落(おち)ればその持主(もちぬし)へ船ちんを拂(はら)ふべし。根岸へ落れば畑(はたけ)の損害(そんぐわい)を償(つぐな)ふべし。但地名を指(さ)して落たる時は夫に及ばず。又船ちん償(つぐな)ひともに飲食物(いんしよくぶつ)をもつて爲(す)るなり。

つまり、これは「鳥刺し」に類似する遊戯で、参加者に一人一枚ずつ札を配り、「気球に男性」の札に当たった者は、七カ所の名所のどこに降りるかを決めて宣言して、その札を持っている者を当てるのである。当てれば無事に着陸であるが、誤って「隅田川」の札の持ち主に降りた時は「船賃」に当たる飲食物代金を支払い、「根岸」に降りた時は畑を荒らした損害を償う飲食物代金を支払う必要がある。この説明に抜けているのは、正しく的中して降りた時の「ごほうび」と、「隅田川」「根岸」以外の誤った場所に降りた時の軽い「罰」である。これはその場の合意で適当に決めろということであろう。

ということで、これは、「気球」に乗って人が空中を飛ぶという文明開化の新驚異に肝を抜かれた明治人らしい、大人向きのお座敷遊びの遊戯かるたである。まだ「気球」という言葉が作られておらず、「風船」のままなのがおかしい。なお、わざわざ「飲食物で」と断っているのは、金銭を賭けて刑法上の賭博罪に当たらないようにと言う一応の「たてまえ」である。最後に、刊記を書いておこう。これは、明治二十三年二月二十七日発行の「やまと新聞」第千二百録十七号附録であり、発行所は、東京尾張町二丁目壱番地やまと新聞社、発行人兼印刷人は奥隅欣二、編輯人は在竹小三郎である。画工は三代目歌川国貞(梅堂國政)である。

これらのほかに、「十六むさし」や「福わらい」なども盛んに遊ばれたが、かるた札の遊戯ではないのでここでは取り上げない。いずれにせよ、ここで画像を提供しているものは、いずれも昭和末期(1985~89)から平成初期(1989~99)にかけて、私が東京の古書市などで発見して買い求めたものである。当時は私以外にはこれに注目する者がほとんどなく、江戸末期1854~67)から明治前期(1868~86)の江戸、東京中心であるが、大人も子どもも盛んに遊び興じた、こういう特別なかるた札の遊戯が風化して、何度か古書展に出品されても売れ残り、いつの間にか出品されなくなって消えていく。わずか百年前の人々の笑いざわめく遊興の記憶が歴史から消えて行き、当時の子どもたちの遊びの文化が消え去り、それを追慕する機会が未来永劫に消し去られるのが物悲しくて、とりあえず史料保存の趣旨で買い求めて書架に収めていたものである。

今回、こうしたまとめて紹介することを通じて、幕末期(1854~67)から明治前期(1868~86)にかけて、様々な座敷遊戯、家庭遊技に向けて、特定の遊戯に使用する特定の構成、図柄のかるたが何種類も豊かに開発されていたという史実を、日本の遊戯史研究の一つの史実として確立できればいいと思っている。ここに、この遊技に興じた当時の人々の息吹をわずかでも伝えられて、これが後世の人々が遊戯史に関心を持ち、研究を進めるきっかけになればと願うところがある。

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