「北海花」に続いて大きく発達したのが「朝鮮花」である。この地においては、明治二十七、八年(1894~95)の日清戦争において、この地を制圧した日本軍の兵士や軍属、軍夫が花札を大量に持ち込んだ。これが朝鮮における花札の始まりであるが、その後も日本のカルタ屋が現地に芽生えた需要を狙って輸出を試みていた。そこに生じたのが明治三十七、八年(1904~05)の日露戦争であり、再び大量の軍属、軍夫が送り込まれ、そこには大量の花札が持ち込まれた。ここに強くかかわったのが明治三十五年(1902)の骨牌税導入に伴い廃業したカルタ屋に残されていた売れ残りの在庫品である。これは厳密には持っているだけで違法なものであり廃棄しないと罰せられるが、なお経済的な価値が残っているので廃棄しにくいものでもあった。そこに目を付けた京都のカルタ屋、とくに「日本骨牌製造」は廃業した他の業者の倉庫に眠っていた花札を朝鮮に輸出するとして買いたたいて仕入れて、実際に朝鮮への輸出を始めた。骨牌税法第十二条も輸出用の花札は納税を免除していたので、当時はまだ外国であった朝鮮への輸出には好都合であった。廃業した同業者の倉庫に残っていたカードを買って簡単に寄せ集めて一組にするので不揃いであったり、品質が落ちたりすることなどがあったが、それはあまり気にしなかった。要するに、十二紋標、四十八枚のカードがあればよしとされたので、中には、複数のカルタ屋の製品を混ぜて一組にすることもあった。いずれにせよ、安価で、朝鮮人の人々でも買えるように供給しようというのがカルタ屋の戦略で、それはヒットして花札が朝鮮で大流行して、日本にあった大量の不良在庫がきれいに処分できたと言われている。

朝鮮は、その後日本が保護領化し、さらには併合した。花札は堂々と売られるようになり、爆発的に流行した。花札は「花闘」と呼ばれ、その遊技の場所として「花闘局」が多数発生し、そこは花札のカードの販売拠点ともなった。日本では盛んだった「八八花」は「横浜花」と呼ばれて遊ばれていたが、それよりも「八十八の馬鹿花」という比較的に単純な遊技法が盛んであった。それとともに、今日の韓国で「ゴー・ストップ」と呼ばれる技法が盛んになり、これは日本本土に伝播して「コイコイ」の技法となった。

昭和六年(1931)に朝鮮骨牌税令(昭和六年四月十五日制令昭和六年第一号)、朝鮮骨牌税令施行規則(昭和六年四月二十四日朝鮮総督府令第四十五号)及び付随する制令、総督府令が発出された。

花札は大日本帝国による朝鮮支配の有力なツールになっていて、朝鮮に渡った支配者の日本人にも、支配された朝鮮人にももてはやされた。そして、日本に滞在して帰国するものが増える時期になると、日本各地のローカルな遊技法も伝わるようになった。明治末期には、仁川の港から京城(ソウル市の当時の呼称)迄の道筋には花札の売店が軒を連ねていたという記録もある。朝鮮での花札の大流行の状況については、大正期(1912~26)の記録でも、日本国内での需要よりも朝鮮における需要の方が大きいほどであった。

朝鮮では、基本的には安価な商品が売れたので、カルタ屋はそうした需要に応じて安価な朝鮮向けの花札を開発した。分厚い洋紙を用いて、手摺りではなく機械で図柄を印刷してカードの大きさに裁断するだけで出来上がる品物であり、花札製作の最大のポイントである裏紙を折り返して表紙(おもてがみ)の縁にする縁返しの工程が省略されている。業界では、このタイプの花札を「切りっぱなし」と呼んで全くの安物扱いをした。朝鮮花とは切りっぱなしの安価な花札を指す。

「餅を搗く兎の絵」のある「芒に満月」札(日本骨牌)
「餅を搗く兎の絵」のある
「芒に満月」札(日本骨牌)

但し、そうは言うものの、朝鮮にも中級品、高級品が行かなかったわけではない。政府の要人たちや現地に乗り込んだ多くの日本人の家族が遊技に用いるのは日本国内の物と同じレベルであった。そして、朝鮮への進出に熱心であったカルタ屋の「日本骨牌製造」が、たまたま「芒に満月」の札の満月の中に黄色で餅を搗く兎の絵を入れた、この会社だけに特有の日本国内向け商品の図像の花札を大量に輸出したところ、これが影響したのか、朝鮮では、満月の中に何かを描くのが高級品の証ということとなり、その後も様々な意匠が用いられた。この伝統は今日まで残っていて、今でも韓国の花札では満月の中に必ず何かが描かれている。また、たまたま「五光」を構成する「光」物の札に円で囲った光という文字を加えたものを日本国内で売っていたところ、それが朝鮮に持ち込まれて多く売られた。朝鮮ではそれも花札の標準的な図柄であると誤解されたのか、韓国の花札では今でも「五光」札に「光」の文字が入っている。その後、「柳」の札の小野道風が朝鮮貴族の両班に代わり、「藤」の札が黒豆と理解されて上下がさかさまになった。

さらに、韓国の「花闘」の「芒に雁」のカードでは三羽のうちの一番下の雁の胴体が例外なく赤い。日本の花札では普通は三羽とも黄色なので小さいが明瞭な差異である。これがなぜこうなったかというと、日本のカルタ屋の中で朝鮮への花札の輸出、移出に熱心だった「日本骨牌製造」の花札がこの彩色であったのである。この会社と並んで朝鮮進出を試みた「大石天狗堂」の場合は「日本骨牌製造」を真似て赤くしたものもあるし、「任天堂」のように黄色く彩色したものもある。「日本骨牌製造」と「大石天狗堂」の影響が朝鮮で強かったことの表れであるが、韓国の花札はこれを踏襲して今でも赤い雁を飛ばしているのである。これらは「朝鮮花」の特徴として今日まで継承されている。

なお、朝鮮における花札の歴史については、長い間、研究が不足していた。朝鮮戦争による史料の散逸も甚だしく、第二次大戦以後の、日本との関係が途絶した時期の花札の国産化も分からなくなっていた。私は、1980年代以降に韓国を訪問する機会が増え、これを研究する研究者を探したが発見できず、古物商などで古い時期の物品史料を探したがはかばかしい成果には恵まれなかった。ソウルの国立民俗博物館でも調査したが、蒐集物はほとんどなく、館員にも収集、研究への熱意は感じられなかった。そして韓国では、花札は自然を愛好する文化の生んだものであり、また、そこには「恨」の精神が満ちており、韓国がその発祥の国であるという韓国起源説が登場した。だが、やはり花札は日本が二十世紀初頭に韓国に持ち込んだという史実は否定しにくいので、韓国起源説は屈折し、そもそも世界のカルタの発祥の地は韓国であり、それが中国に影響して中国の紙牌になり、ヨーロッパに普及してトランプになり、ポルトガル船がアジアに持ち込んで日本のカルタになり、そこから花札が生まれ、それが韓国に渡ってきたのであるから、花札の構成や札の図柄は日本的であっても、基本の精神が韓国文化なのであるという説明になった。私には到底付き合いきれない説である。

第二次大戦後の韓国紙製花札
第二次大戦後の韓国で作られた紙製の花札

こうした研究の隘路を打開してくれたのはアメリカであった。アメリカでも片田舎にあったコレクター仲間の店に、第二次大戦後の韓国で作られた紙製の花札が数組あった。アメリカのコレクターの興味は引かなかったのか、店の商品ケースの片隅でほこりをかぶっていたが、私には、長年探していた花札史のミッシング・リングの発見であり、大興奮したことを憶えている。これを得て、第二次大戦前の日本からの「朝鮮花」の輸出、移出の時期、第二次大戦後の紙製花札の韓国国内での製造の時期、1970年代以降のプラスチック製花札の製造の時期という大きな流れを具体的な史料の裏付けをもって説明することができるようになった。私は、ごく最近、今年になって初めて韓国花札史の研究をまとめて文章にして、「朝鮮の花札、『花闘』」と題してこのウェブサイトに掲載した。

おすすめの記事