戦争中に軍隊で花札に耽った経験は、そう簡単には消え去らない。第二次大戦の末期にソロモン群島ブカ島では、戦意を喪失した日本軍の兵士はアメリカ軍が蒔いた伝単(宣伝ビラ)を拾い集めて貼り合わせて手製の花札を作って日夜遊技に耽っていた[1]。戦争中に米軍の捕虜になった者や、戦後に投降して収容所に入れられた旧軍人・兵士が苦労して手製の花札を作り無聊を慰めたという類の体験記もいくつもある[2]。アメリカ本土で、アリゾナ州の荒地にあった強制収容所に入れられた日系人が、乏しい資材を使って見事に作り上げた手製の花札も残されている[3]

抑留者手製の花札(モンゴル)
抑留者手製の花札(モンゴル)

第二次大戦が日本の敗北で終わると、アジア各地で日本人への迫害が強まった。国と軍部の庇護を失った日本人は、各地で凄惨な生活を送ることになった。北朝鮮では、南朝鮮への脱出ができなかった日本人は、強制収容所に入れられ、ロシア兵による暴力と凌辱の恐怖の日々を送らざるを得なかった。そういう環境で、日本人が花札を入手してわずかな慰安に用いた記録もある[4]。中国やモンゴルに収容された日本人が、やはり手製の花札で遊んだという記録もある。悲惨なのは、ソ連のシベリアに連行され、収容所での無惨な処遇の下に置かれて強制労働に従事させられた日本人である。生活に希望も慰安もない毎日で、彼らは手製の花札を作り、毎日の食事を賭けて花札遊技を行った。中には、夕食を賭けて勝負に負けて三日分を失い、絶食になって餓死した収容者もいたと伝えられている[5]。これが、帝国の膨張を最前線で担って戦った帝国陸海軍とともに広くアジア各地に拡散した花札の、帝国の破綻に伴う哀れな没落の姿であった。そして戦後、シンガポールのチャンギ刑務所には日本軍関係の戦争犯罪人が収容され、死刑に処せられた者も少なくなかった。そういう彼らの間でも花札が作られ、使用されていた。私の手元にはそうした二組の花札がある。死刑に処せられた日本人の残した遺品である可能性が高い。箱には制作者らしい人名が書かれているが、私にはその人のその後の運命を確かめるように調査する勇気はない。

日本人戦犯手製花札(シンガポール)
日本人戦犯手製花札(シンガポール)
日本人戦犯手製花札(シンガポール)
日本人戦犯手製花札(シンガポール)

第二次大戦後のアジア各地で、明日の命が長らえるのかも分からない日本人が、花札遊技を行っていたという挿話は、痛ましい思いを掻き立てるが、こういう話は日本人に限ったものではない。第二次大戦中のユダヤ人強制収容所で、毒ガス室送りになる人々がその直前までトランプ遊技で時間を過ごしていたことが知られている。チャンギの刑務所で死刑判決の執行を待たされていた日本人も花札遊技で時間を過ごしていた。極端に不公正で、不条理極まる裁判で死刑を宣告され、覚えのない捕虜虐待の罪への抗議も抵抗も法律上の手立ては全くないうえに、母国であり、自分をこの地に派遣した国でもある日本は、BC級戦犯は戦争に乗じて犯罪を起こした恥さらしの犯罪者であるとして見捨てており、通信は途絶し、家族からの手紙も、慰問品の一つも届かない。冤罪に処せられる道から外れるすべがない日々を送るときだが、手製の花札で遊技するときは、少なくともルールは公正で、遊んでいる時間だけは自分を他の者と平等な人間として扱ってくれる。その時間だけが、自分が人間であることを確認できる時だったのではなかろうか。そして多分、アウシュビッツのユダヤ人収容者も、カードゲームの時間だけはこの世の不条理から解放されるがゆえに、処刑される直前までカードゲームに興じ、自分が人間である誇りを持って逃れようのない死地に赴いたのであろう。ここには、人間とかるた遊技とのまだ解明されていない特別なつながりが伏在しているように思える。

追記(令和3年2月10日)

上記の記述に対して、令和3年1月に、京都府在住の閲覧者から、第二次大戦中のユダヤ人強制収容所に関する記述が歴史的事実に反すという指摘があり、3点に及ぶ対応を要求された。
1.「毒ガス室送り」及び「(ユダヤ人が)処刑される直前まで」の証拠を提示せよ。
2.提示が不可能ならば、前記記述を修正および削除せよ。
3.上記2項目に係る情報を貴館ウエブサイトにて公開せよ。

第二次大戦中のユダヤ人強制収容所のいくつかで、毒ガス室で殺害されたユダヤ人被収容者があったことは史実として確認されるし、ユダヤ人たちが、収容所内でトランプを制作して実際に遊技したことは、アメリカ合衆国ワシントンDCにある「アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館」での展示品及びその解説で知ることができるが、「第二次大戦中のユダヤ人強制収容所で、毒ガス室送りになる人々がその直前までトランプ遊技で時間を過ごしていた」という記述に関しては、「直前まで……遊技した」ことを証明する証言や手記などの直接の証拠史料は持ち合わせていない。したがって、上記1の要求に対応することはできないので、そのことを公表してこの部分の記述を取り消す。しかし、ここで該当部分を抹消してなかったことにするのは研究者として誠実ではないと思われるので、私の行った書き過ぎの誤りを記録に残す趣旨で見え消しとさせていただく。

もう一点、上の記述の少し下部にある「そして多分、アウシュビッツのユダヤ人収容者も、カードゲームの時間だけはこの世の不条理から解放されるがゆえに、処刑される直前までカードゲームに興じ、自分が人間である誇りを持って逃れようのない死地に赴いたのであろう。」という記述も、アウシュビッツの収容所に毒ガス室が存在したことを前提にしているが、このことを裏付ける証拠は、一般に認められているものを越えることはなく、不確かな記述であるので取り消して見え消しにさせていただく。

私は、以前から、戦時ないし敗戦後に悲惨な状況下に置かれた人たちがカードゲームの遊技に親しむ現象に関心があった。上に紹介した例のほかにも、インドネシアで日本軍に抑留された人が制作したトランプや、第二次大戦後に戦争犯罪人として東京の巣鴨に収容された人たちが手造りして遊技した麻雀牌なども実見した。またナチスの強制収容所については、1970年代にドイツ・バイエルン州のダッハウ収容所を見学したが、ポーランド国内のアウシュビッツ収容所に行く機会はなかった。現地を未見であるのにアウシュビッツ収容所と特定して記述したのは、安易に社会的な常識に従ったものであり、取材と執筆が軽率であったと反省している。

今回の指摘と批判の根底には、この閲覧者による、第二次大戦中のナチスドイツによるユダヤ人の毒ガス施設での殺害は連合国およびユダヤ人側のプロパガンダが生み出した虚像であるという認識及び主張がある。私は、こうした殺害の事実に関して、日本の社会で一般に流布されている情報を元に考察しているのであって、これまでに社会的に公表されていない独自の証拠を持っているのではない。最近では、アウシュビッツ収容所でユダヤ人の殺害をほう助したユダヤ人がその犯罪を記録した手記を収容所内部の地下に瓶詰めの状態で埋めて残したものが発見されたことを詳細に報道する番組もあった。しかし、この閲覧者は、こうした日本の社会で流布されている情報も反ナチスのプロパガンダの産物であって捏造、虚偽であるとしているのであるから、この種の証拠をいくら指摘しても閲覧者の批判に応えることにはならない。

私は、今、ナチスドイツによるユダヤ人の毒ガスによる殺害という理解の真実性、あるいは虚偽性に関する論議、あるいは強制収容所におけるカード遊技と死亡の時間差に関する議論に参加する研究計画も能力もない。他方で、戦時に、あるいは占領下に、極端に不条理な処置で冤罪を背負わされて死を運命つけられた者が、収容された施設でひそかにカードゲームを遊技して、公正なルールが公平に適用される時空間に身を置くことで、自身がなお人間であることが確認できる救いを求めたと想定できる、世界各地にある実例の意味するところを研究し続けることを止めることはない。そこで、このことを日本かるた文化館の閲覧者に提示する趣旨で、今回の訂正と削除は上記の点に留めさせていただきたい。

以上をもって、この追記の冒頭に挙げた3点の要求に対する回答とさせていただきたい。この訂正と削除をもたらした原因は私の不用意な書き過ぎに由来するものであり、そのことを反省している。


[1] 一ノ瀬俊也『戦場に舞ったビラ 伝単で読み直す太平洋戦争』講談社選書メチエ、平成十九年、六四頁。

[2] 舞鶴引揚記念館展示品「モンゴル抑留中に作成した花札」。http://www.city.maizuru.kyoto.jp/modules/sangyoshinp/index.php?content_id=285

[3] これは電気遮断板を使ってナカン(ナカノ?)・チョウジという人が作った二組の花札である。赤裏と黒裏で、図柄も正確で、角の面取りまでしてある。作者の花札を愛好し、祖国の文化を思いやる気持ちが溢れている。二〇一五年に日本で展覧会「尊厳の芸術展」に出品された。デルフィン・ヒラスナ著、国谷裕子監訳『尊厳の芸術 強制収容所で紡がれた日本の心』NHK出版、平成二十五年。

[4] 外山寛子『嵐の三十八度線 女たちの封印の扉』文芸社、平成十七年、一〇四頁。

[5] 帚木蓬生『やめられない ギャンブル地獄からの生還』集英社文庫、集英社、令和元年、一四五頁。

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