井上壽美枝『麻雀教科書』
井上壽美枝『麻雀教科書』

その後、大正十年(1921)頃から関西地方で麻雀が徐々に流行し始めた。当初はルールもバラバラで混乱したが、大正十五年(1926)に大阪に「廣珍園麻雀倶楽部」が生まれ、昭和二年(1927)に「大阪麻雀倶楽部」と改称して規則の統合が進み、大阪の光榮商店から田邊竹三郎が『世界的遊戯 麻雀の遊び方』を著した。さらに同年、京都の内外出版株式会社から下村白薇著の『麻雀』が出版され、大阪の盛進堂から井上壽美枝の『世界的支那遊戯 高級娯楽 麻雀教科書』が出版された。この頃、上海の井上紅梅は、神戸に井上商店を持ち、そこからアメリカに向けて、麻雀牌の輸出を行うとともに、麻雀ブームのアメリカでは女性がチャイナ・ドレスを着用して麻雀卓に向う新ファッションが流行したので、上海から女性の中国服の古着を輸出して大儲けしていたので、井上壽美枝は井上紅梅の親戚ではないのかとずいぶん調査したが、結局その関係は発見できなかった。そして、私の調査が始まったその頃、阪神淡路大震災が発生し、神戸の井上商店の記録も記憶もまったく消滅した。

大日本セルロイド牌
大日本セルロイド牌

ただ、この調査の過程で、井上壽美枝がセルロイド製の麻雀牌の販売に関わっていたことを知った。私は、以前から、大日本セルロイド(現在の社名はダイセル)がこの時期に制作したセルロイド製の麻雀牌、一式を所持していた。この牌は、ダイセル本社の資料室にも半端な不足品が残るだけの珍しいものであり、従来の麻雀史の解説書類ではおよそ言及されたことがないものであった。私は、これは、麻雀ブームで麻雀牌の供給が不足していたアメリカでこれの販売に力を入れたハル(L.L.Harr)の会社の下請製品で、もっぱら対米輸出用に製造したものと考え、日本国内での流通の痕跡を発見できなかったので日本製のゼロ号麻雀牌と説明していた。ところが井上の著書の最終ページには、このような記事と広告が掲載されていた。

終(をはり)に麻雀(マーヂヤン)の價格(かかく)について一言(げん)書(か)き添(そ)へたいと思(おも)ひます。

支那(しな)製(せい)の麻雀(マーヂヤン)は價(あたひ)も高(たか)く百五十圓位(ぐらゐ)なれど其等(それら)は多(おほ)くは骨董品(こつとうひん)に重(おも)きを置(お)いた部類(ぶるゐ)に属(ぞく)して居(ゐ)ます。

今(いま)市井(しせい)に販賣(はんばい)せられるものは象牙(ぞうげ)製(せい)にて四十五圓位(ぐらゐ)、最近(さいきん)は種々(しゆゞゝ)の加工品(かこうひん)が作(つく)られセルロイド製(せい)にても却々(なかゝゝ)に捨(す)て難(がた)い精巧(せいこう)な物(もの)が出來(でき)てをります。

大日本(だいにほん)セルロイド會社(かいしや)製(せい)の麻雀(マーヂヤン)は四十圓位(ぐらゐ)にて市場(しぜう)に提供(ていけう)せられ亦(また)快聲堂(かいせいだう)の發賣(はつばい)にかゝるものは上海(しやんはい)製(せい)にて價格(かかく)は十三圓以上(いぜう)各種(かくしゆ)取揃(とりそろ)へられたりといふ子供(こども)用(よう)には木製(もくせい)にて三圓位(ぐらゐ)のものもあります。其他(そのた)中外(ちうがい)セルロイド會社(かいしや)にも諸種(しよしゆ)の麻雀(マーヂヤン)が制作(せいさく)せられて居(ゐ)ます。

◆各社製品宣傳の爲大割引!

高級なお遊び 世界的支那遊戯 セルロイド麻雀 美麗!箱入 (極上製品)百十圓 (特製A)三十五圓 (特製B)三十圓 (特製C)二十五圓 (獨習用の木製品)五圓 御申込は本書の發行所 盛進堂書店 振替大三一二八五番

◆家庭のお遊びには何と云つても今は麻雀!

井上はさらに、同書で、「本書の参考書となれる著者とその書名」として、「一、下村白薇氏著 麻雀(中外出版社) 二、麻雀遊戯法(中外セルロイド會社)、三、北野利助氏著 麻雀(の)遊び方」を挙げている。残念なことに私はまだこの中外セルロイド社の『麻雀遊戯法』を手にしたことはないが、それでも、この時期の大阪で、「大日本セルロイド社」や「中外セルロイド社」でセルロイド製の麻雀牌が制作、販売されていたことと、「快聲堂」で上海製のセルロイド牌が販売されていたことを知ることができた。セルロイド製の麻雀牌はアメリカ向けの輸出用で国内での販売実績はないという私の理解は誤りであった。なおまた、大日本セルロイド社は麻雀の普及にも熱心で、同社の森田茂樹は昭和二年(1927)の「全關西麻雀聯盟」の設立に関わるなどの活動もしていた。また、大阪には夕刊大阪新聞社があり、麻雀遊技の紹介、報道、普及に努めていた。これに協力したのが丸善書店大阪支店に勤務していた司忠で少し遅れるが昭和三年(1928)に『麻雀戯法』[1]を著した。


[1] 司忠『麻雀戯法』、夕刊大阪新聞社、昭和三年。

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