この復元作業の完成後しばらくたって、福井県在住の山口泰彦は、著書『最後の読みカルタ』[1]で、私の復元作業への関わりについて批判を書き連ねた。そこで展開された批判の要点は以下の八点に要約できる。
- 江橋は莫大な浪費をして無意味に版木を復元した。
(二)江橋は復元の用紙選定に際して、現存する滴翠美術館の『天正カルタ』用紙の科学的検討をしないで三池に近い九州の紙を使った。
(三)江橋はカルタの彩色(染料)も専門的に分析しないで勝手に決めた。
(四)復元『天正カルタ』を江橋が一部の人だけで独占していて、他の者には実物が見られない。
(五)復元作業が松井に対する四年越しの小口注文で単年度でなかったのでやりにくかった。
(六)骨刷りの紙が一枚につきカルタ四枚分と小さく、それも縦横が不揃いで、松井は加工に苦労した。こうした注文は横柄過ぎる。
(七)松井に対して裏紙の折り返しを何ミリと『天正カルタ』誕生当時には考えられない工業製品並の精度を要求した。とても無理な注文であった。
(八)松井は完成品、材料をすべてカルタ館に納入したのに、完成品を松井に渡さず、強い要求でやっと一組を渡した。
要するに、(一)から(四)は私の復元作業への取り組みが恣意的であるという批判であり、(五)から(八)は私の松井重夫への仕事の依頼が暴虐だという批判である。これらはいずれも事実を調査せず、論拠も示さずに書いたものであり、特に真剣に反論する必要はない。版木の制作にしても用紙の選定にしても顔料(山口は染料と誤解している)の選定にしても可能な限り調査を尽くしていることはすでにふれた。完成した「三池カルタ」は三池カルタ記念館で常時展示していたし、複数組を制作したので希望する来館者には貸し出して自由に扱ってもらっていた。写真撮影も自由である。山口は外部の者は実物が見られないというが、一般の人にも自由に利用してもらっている。こうした実際の事情を知らないのは、大牟田市の三池カルタ記念館(現在の三池カルタ・歴史資料館)の現地に行きもしないで批判を書いた著述の舞台裏を暴露するだけである。その他、山口は、こうした非難を展開するに際して、事前に私から取材することは一切していない。批判的な記事を書くときは当事者にも取材するという週刊誌レベルの執筆のマナーもないので反論する必要もない。
山口の批判のもう一つの特徴は、「三池カルタ」復元作業のうち、松井重夫の関係する部分だけを取り上げていたことである。これはすなわち、山口は松井から話を聞いただけで書いているということである。復元作業では、松井以外にも多くの人々がかかわりを持った。私の関わり合いが尊大で無礼だったというなら、安土桃山時代の紙質のものを作れと言われた福岡県八女市和紙作りの職人であるとか、版木の二度の彫直しに始まり様々な難題を持ちかけられた京都市の宮脇売扇庵とか、各方面に取材すれば、もっとたくさん、私の「横暴」「非行」を暴露する材料が得られたかも知れないのに、取材不足が情けない。そして、松井に関していうと、山口の書くところでは松井は私に虐待されて恨み骨髄のようであるが、実際には、松井と私は、復元作業の奇跡的な成功をともになしとげて、復元作業完了後も平成二十八年に松井が死去するときまで、以前にも増して親密であった。山口の著書における松井の私への悪意の表現については、私が冗談半分で松井に、本当にあんなこと言ったのですかと、実際は山口にどう話したのかを聞くと、松井本人から、あんなこと云うていませんのに、ご迷惑をおかけしますと謝られる。「江橋先生のご注文はきつくて往生しましたぜ」などという職人独特の苦労話のセリフが、困難を突破して成果を得た職人のいかにも自分の腕に自信のある回顧の言葉なのか、注文主に対する悪意に満ちた非難であったのか、文脈の取り違えも甚だしい使われ方をしているということである。また、たとえば用紙の選定や顔料の選定など、私が松井と散々に相談した事項についても私が独断で恣意的に決定したとしているが、これなども、松井に取材すればすぐに訂正されるところであり、この程度のことさえ取材しないで執筆している事情を暴露している。
[1] 山口泰彦『最後の読みカルタ』、矢船町カルタ保存会事務局、平成十年。