(五)批判の背景

山口は、『最後のよみカルタ』の出版以前には、私とはほとんど面識がなかった。それがなぜ突然に牙をむいて吠え掛かってきたのかは奇妙である。それほど深く交際していなかった私にはその理由を判断する十分な根拠はない。ただ、当時、山口が同志社女子大の吉海直人と酒席を共にして、江橋を打倒すれば自分たちが日本一のカルタ史研究者になれると二人で叫んでいたと、その場に同席していた人たちが私に報告してきた。なるほど、山口は『最後の読みカルタ』[1]で吠え、吉海は花札の発祥に関する珍論文「『花かるた』の始原と現在」[2]で吠えた。吉海の珍論文に対してはそれがいかに虚偽だらけで吉海にカルタ史の基礎的な知識さえ欠けており、またいかにカルタ史の研究者に求められる研究マナーとルールを逸脱しているかを全面的に展開して批判した[3]ので、吉海は反論も弁解もその余地もなく、花札の研究世界から黙って消えた。

山口は、当時、福井県内で読みカルタの遊技法が残っていたことを発見して、その保存に取り組み、それを軸にしてカルタ史を語り、『最後のよみカルタ』を著した。私は、この発見は高く評価している。同書における史料批判の在り方や記述の当否については、山口が研究者としての基礎的なトレーニングを得ていないことから生じる問題を数限りなく露呈しているが、全体に学術の世界で検討するほどの水準のものではないので、刊行当時も特に批判を加えなかったし、ここでも触れない。山口はまた松井天狗堂を通じて「小松」という「地方札」の復元にとり組んでいた。その復元作業の出来栄えの評価にもここでは触れない。ただ、山口は、私の行った「三池カルタ」の復元作業の評価が暴落すれば、自分の行った「小松」の復元作業が日本一になると想像したようである。山口には私を批判することを通じて復元された「三池カルタ」を溝に叩き落して、自分の「小松」の復元作業を輝かせようという趣旨があったのだろう。

だが、二十年たっても「三池カルタ」の信頼性は失墜していない。何回かそのコピー商品も出現している。カルタの描線は既存の史料のコピーであるが、赤、黄、緑の三色の彩色は私が責任をもって推定したところであり、そこには著作権が発生している。コピー商品の出版社に無断使用である旨の注意を喚起すると、でもあれは天正カルタそのもののコピーでしょう。あなたに著作権はないでしょう、と反論された。天正カルタの彩色は史料からでは分からないのですというと、怪訝そうであった。私の彩色を史実だと思って頂けるのは困惑するが、名誉な誤解でもあるので、それ以上の苦情は申し上げなかった。アメリカでもこれの模倣品が作られた。溝に落ちたのは誰だったのだろうか。

私は、長く不明のままであった日本のカルタの歴史が私の研究で少しでも明らかにできれば、山口が自分こそ日本一といおうとも、吉海が自分が日本一のカルタ史の研究者だと嘯こうとも、一向にかまわない。ただ、とても狭く、かかわる人間の数も少ないカルタ、かるたの歴史研究の世界なので、根拠のないウソだらけの文章を持ち込むことだけはご勘弁願いたいと思う。

もっとも、考えようによっては、「三池カルタ」の復元については、作業が完了してカルタができあがったので良しとしていたところ、山口の中傷があって、後世の研究者の便宜のためにやはり作業の経過を書き残しておかねばと思うようになって、昔の記憶を苦労しながら思い出してこの文章を公表したのだから、そういう作文の意欲を刺激したという限りにおいて、山口の文章にもなにがしかの価値を認めるべきであろうか。

なお、ここに、平成十四年(2002)に私が三池カルタ館に提出した「天正カルタ版木硯箱鑑定書」を添付しておこう。研究の便宜になれば幸いである。


[1] 山口泰彦、前引『最後のよみカルタ』。

[2] 吉海直人「『花かるた』の始原と現在」『同志社女子大学日本語日本文学』第十六号、平成十六年、三七頁。

[3] 江橋崇「吉海直人教授の始原と現在――論文「『花かるた』の始原と現在」への疑問」『遊戯史研究』第十六号、遊戯史学会、平成十六年、二六頁。

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