ここできちんと確認しておきたいが、崇徳院は、後水尾朝廷によって「廃帝」とされ、天皇の系譜から排除されていて、公式には、幕末期に上皇位に復位が認められ、白峯神宮が創建されるまで名誉も神格も認められていなかった。師宣程度の町絵師がそれを勝手に復位させることなどは到底ありえない。逆に言えば、師宣が刷新を世に問うことができたのは、その背後に、後水尾朝廷による天皇の系譜の改変を良しとせず、その是正を迫る巨大な力の後押しが絵師の世界でもあったからである。それが江戸狩野派の動きであった。
この革新的な『小倉山百人一首』こそ、菱川師宣という大和絵師の歌人画としては代表作であり、最も重要な史料である。私は、不覚にも以前はこの書物の存在を知らなかった。国立国会図書館でこの本の所蔵を発見した時は驚き、自己の不明を恥じた。何回も閲覧し、コピーも取り、研究を重ねてこの書の重要な意義を理解した。また、その後、平成十一年(1999)刊行の吉田幸一『百人一首 為家本・尊圓親王本考』[1]において、詳細な考察がなされ、全編が採録されていることを知って大変に嬉しく思った。世界中で、完本はこの国会図書館本一冊だけとされていた希書[2]であるが、その存在を世に知らしめた功績は吉田にある。そして、今では、この書の検討とその結果を語らずに百人一首かるた絵の歴史を書くことは学術の世界では意味がないと思っている。全く幸いなことに、大田南畝旧蔵のこの書が国立国会図書館という公共の施設に所蔵され、データがデジタル公開されている。最近は、『素庵筆百人一首』のデータ公開も進み、素庵本、尊圓本、師宣本と、百人一首かるたの歌人図像の元となった最重要史料が三本とも誰にでも利用可能になったのであるから、吉田幸一の業績を看過している不勉強な研究はその方法論から改めてほしいところである。
なお、菱川師宣は、同年に、すでに寛文十三年(1673)に成立していた井上秋扇『百人一首基箭抄』の絵入版本である『百人一首増補絵抄』が出版された際に『像讃抄』の歌人画を提供して、これも版を重ねてその歌人画はさらに一層広く普及した。
[1] 吉田幸一『百人一首 為家本・尊円親王本考』、笠間書院、平成十一年。
[2] 本書は、その後、国文学研究資料館も一冊を所蔵するようになり、平成二十一年の特別展示「江戸の歌仙絵」で開示された。