メニュー

(一)江戸時代初期、前期の「絵合せかるた」

前章の3-1では、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)にかけて、年号でいえば寛永年間(1624~44)から元禄年間(1688~1704)の時期に、動物、植物、器物、人物、能狂言などの様々な主題別に、一対・二枚ごとに同一の物ないし人などを主題にした図像があるカードがあって、それが数十対で一組になっていて、多数のカードの中から合致する二枚のカードを合せ取る「絵合せかるた」の遊技が成立していたこと、そこでは、カードの識別を容易にするためであろうが、対になる図像の二枚のカードの内、一枚のカードには動物、植物、器物、人物、能狂言の曲名などについて漢字でその名称が書かれており(漢字札)、もう一枚のカードには同じことが平仮名で書かれていた(仮名札)ことについて明らかにした。これが「絵合せかるた」の遊技法と使用するカードの始原の姿であり、日本式かるたの源流をなす。

なお、ここで断っておきたいが、山口は『うんすんかるた』ではかるたの類はすべて片仮名で「カルタ」と表記している。一方、私は、原則として、海外から伝来し、その後日本国内で継承され、変化していったカルタ札とその遊技は「カルタ」と表記するが、貝覆に発祥する日本固有のかるたは、平仮名で「かるた」と表記している。そして、「カルタ」と「かるた」を一つにして総合的に表記する場合は「かるた」の方を選択している。ここで今山口の蒐集したかるた類を紹介しているが、私の基準からすると「かるた」と表示したいが、山口の著作からの引用であるので、そのオリジナリティを尊重して山口が使った片仮名表記の「カルタ」を残している。ご理解いただきたい。

大名船印絵合せかるた
「大名船印絵合せかるた」
(滴翠美術館蔵、『滴翠美術館名品展』)

本題に戻ろう。この時期の「絵合せかるた」の図像が一対・二枚のカードで同じ図柄であったのか、それとも対になる異なった図柄であったのかは『うんすんかるた』の記述からはよく分からない。最初期の「能狂言絵カルタ」や「女武者絵カルタ」は残っているカードの数が少なく、そこには「漢字札」と「仮名札」が揃って残っている例がないので確認できない。山口によるとその後の「二十四孝絵合せカルタ」は「同様の絵」であり、「大名船印絵合せカルタ」は「対になる絵」で文字がなく、「職人尽絵合せカルタ」は「同一の絵」で一方に漢字があり他方には文字がない。「唐武者絵合せカルタ」「士農工商器財尽絵合せカルタ」「軍陣武具絵合せカルタ」は各々が「同一の絵」で漢字と平仮名で文字がある。そうすると遅くも元禄年間(1688~1704)には二枚ともに同一の図柄のカードに漢字ないし平仮名で文字のある「絵合せかるた」があったことになるが、同一の図柄であればそれが対であることは一目で理解できるのであって、わざわざ漢字札と仮名札に書き分けて理解させようとした趣旨が分らない。

想定されるのは、元禄年間(1688~1704)よりも以前の江戸時代初期(1603~52)、前期前半(1652~88)には、対になる異なった図柄のカードがあって、そうするとどれとどれが正しい一対を構成するのかが分からなくなる危険性があるので、二枚のカードの各々に漢字と平仮名を書き分けて説明しておく必要性があるということである。とくに「能合せかるた」や「狂言合せかるた」では「老翁」、「鬼」、さらには「太郎冠者」のようにあちこちの曲目に登場する類似の役柄があるので区別する必要性が顕著である。そして、この習慣が、同一の図像のものを合せる「絵合せかるた」にも波及したと考えられる。こういう仮説が成立するには、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の、図像が対になっていて漢字ないし平仮名の文字があるカードが発見されなければならない。ここで扱う三池カルタ・歴史資料館蔵「狂言合せかるた」[1]はちょうどこの空白を埋めて発祥期の「絵合せかるた」の姿を明らかにする好史料である。

職人尽絵合せかるた
「職人尽絵合せかるた」
(上段、下段で対の合い札が分かる)
(滴翠美術館蔵、『滴翠美術館名品展目録』

職人尽絵合せかるた
「職人尽絵合せかるた」
(滴翠美術館蔵、『古美術69』等)

山口の指摘したもの以外にも、これと同趣旨の二枚の図像のカードを合せ取る「絵合せかるた」の史料がある。すでに紹介しているが、大阪市立博物館蔵で、以前に元禄年間(1688~1704)末期の「曾根崎図屏風」の背面から発見された元禄年間(1688~1704)の「譬え合せかるた」の残欠、表面を見せているもの十二枚と裏面を見せているもの十枚、合計二十二枚(但し表裏に割いたものの可能性がる)[2]と、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館蔵の享保年間(1716~36)の「雑排合せかるた」(仮題)一組、八十八枚[3]である。前者では、一つの譬えが前半部分と後半部分に分断されて、漢字交じりの平仮名で二枚のカードに分かち書きされていて、「前半の札」にも「後半の札」にもその譬えに関連する図像があるが、残欠はわずかに十二枚であって一つの譬えで「前半の札」と「後半の札」が揃ったものがないので、両者の図柄が同じものだったのか、対になるものだったのかは分からない。後者の「雑排かるた」では、一句の俳諧が二つに分かち書きされていて、「前半の札」と「後半の札」の各々にそれに関連する異なった図像がある。このように一対のカードのどちらにも図像がある「譬え合せかるた」や「雑排合せかるた」は、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)と続いた「絵合せかるた」の伝統を引き継いだ江戸時代中期(1704~89)初めのかるたといえる。

山口が努力してこの時代のかるたのカードを蒐集して、それを基に江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の「絵合せかるた」の姿を解明した功績は不朽である。「漢字札」と「仮名札」という名称も学術用語として定着してほしいと思う。ただ、残念なことに、山口の貴重な発見と指摘は、その後のかるた史の研究ではほとんど無視された。後学者たちは、山口を神のように崇め、『うんすんかるた』を聖典として祭り上げることはしても、それを学術の先行業績として真剣に取り上げて格闘して、その神髄を学ぶことはしていない。挙句の果てに、「譬え合せかるた」が「絵合せかるた」の一種であるという山口の指摘が理解できずに、史実による根拠もなしに、「譬え合せかるた」は「絵合せかるた」から発生したものではなく、「歌合せかるた」から発生した「亜流」であると、歴史の前後を倒錯させて説明する不可思議な者[4]さえ現れた。このファンタジーの問題性についてはすでに検討した。


[1] 大牟田市立三池カルタ記念館『図説カルタの世界』、同館、平成十四年、十七頁。

[2] 神山登「大阪の風景・風俗画といわゆる浪華曽根崎図」『大阪市立博物館研究紀要』第七号、同博物館、昭和五十年、二八頁。

[3] 江橋崇『ものと人間の文化史173 かるた』、法政大学出版局、平成十七年、五五頁。

[4] 吉海直人『「いろはかるた」の世界』、新典社、平成二十二年、三九頁。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です