池長孟(昭和前期
池長孟(昭和前期)

「カルタ版木硯箱」は中国製版木であるという永見の理解は、そこで見逃されていた細部の特徴なども私なりに併せ考えると、私には山口の日本製版木という理解よりも説得力があるように思えるので支持したいと考えているが、これに同意してもらえない人であっても、軽々しく無視してよいものとは思えないであろう。しかし、残念なことに、この永見説はその後のカルタ史研究ではまったく顧みられることはなく埋もれたままであり、山口の説が文句なく受け入れられてきた。永見説に関しては、私の紹介が始めて本格的にスポットライトを当てるものであろう。永見がこの論考を表してから八十年近い年月が経過している。永見は、せっかくの卓見を長期間無視してきた遊技史の学界を叱るのか、それとも、とても遅くなったが彼の問題提起を受け止める私という研究者の出現を喜んでくれるのか。

永見は昭和初期には日本一の南蛮美術のコレクターであり、鎖国時代の長崎の文化、南蛮文化の研究でも卓越した業績を残していたのに、昭和六年(1931)の年末に自家の経済事情の悪化のためにそのほとんどの蒐集品を神戸市の資産家の池長孟[1]に五万円で売却していて、その後は南蛮文化に触れる機会も減少している。「かるた版木硯箱」は永見がその売却の後にたまたま発見、入手したもので、長年、直接伝来説に疑問を感じていた永見に訪れた一瞬のチャンスであった。だが、永見はこの「かるた版木硯箱」を基にカルタ史研究を再開することはなく、この文章を書いてからさほど時間が経っていない時期にこれを今度は池長孟にではなくカルタ研究に熱心だった山口吉郎兵衛に譲って将来を託している。だから、これは永見の人生においてもほんの一瞬の火花の輝きのようなものであった。永見は昭和十八年(1943)の『南蛮美術集』[2]に自らが構成した「南蛮史料展覧会」の目録を掲載しているが、そこには「うんすんかるた 七十枚 帝室博物館蔵」と「トランプ 六十九枚、服部愿夫(よしお)蔵」はあっても「大明萬暦かるた版木硯箱」はない。この時期にはすでに永見の手を離れていたものと思われる。

永見について詳細に調査して書かれた大谷利彦著の伝記でも、「かるた版木硯箱」そのもののことも、それを機縁に書かれた論文のことも抜け落ちている。永見は、郷里に原子爆弾を落とされ、江戸時代の出島貿易で築いた先祖伝来の豊かな家産も失い、第二次大戦後は失意のうちにあって、昭和二十五年(1950)に行方を絶っていて、自殺したと思われている。だが、人の運命というものは不思議なもので、昭和六年(1931)に五万円で永見から南蛮遺物を買い取り、日本一のコレクターの地位を継承して「池長美術館」を設立した池長孟も、南蛮美術の蒐集、研究に没頭して池長家の家産を費やし、第二次大戦後には蒐集品のすべてを神戸市に売却して「神戸市立美術館」、後の「南蛮美術館」、今日の「神戸市立博物館」のキリシタン文化コレクションの基礎を提供した後に、経済的な困難に陥ってやはり失意のうちに世を去った。今日、「神戸市立博物館」に残る「カルタ版木重箱」を始めとするカルタ関係の遺物を見るときには、永見、池長という二人の先覚者の身を削る努力によって辛うじて散逸、消滅を免れた運命に感じるところがある。そして、永見が昭和十五年(1940)、一瞬の出会いの好機を逃さずに書いたこの論文は、こうして後世に伝わり、日本のカルタ史の研究では、南蛮文化は中国でワンクッション有ってから日本に伝来していたという永見の間接伝来説の視点を視野に入れることが大事であると教えてくれている。永見の功績は大きい。

ここで、歴史についてあまり大きく拡散する記述はしたくないが、日本には、古代から、九州北部、韓半島南部、山東半島に至る中国との交易のルート(北路)があり、その後、九州北部、西部と中国の江南地域を直接に結ぶルート(南路)も広がり、さらに室町時代の日明貿易の航路も開発されていた。これらを通じて中国から多くの商船や海賊船が来航し、多くの中国人船員が九州北部、西部に上陸している中で、中国人船員が好んでいた中国の紙牌の賭博遊技文化が上陸していた痕跡がなぜ見つからないのかは慎重に判断される必要がある。他方で、日本に伝来したカルタが十六世紀のポルトガルのカルタに淵源することは確かだが、ポルトガル船が、古くから開発されている日本と中国の間の使い慣れた安全な交易ルートを無視して、ジャワから危険に満ちた大洋を横断して、途中で中国の港に立ちよって新鮮な水や食料の供給を受ける機会も捨ててダイレクトに日本にやってきて、それに乗船していたポルトガル人が、言葉も通じない日本人に直接にカルタの遊技法を教えたと想定した新村出以来の直接伝来説の歴史像は非現実的な想定である。

今日、かるた史の研究に際しては、東アジア史の研究者から、多くのことを学べている。上田正昭[3]、田中史生[4]、河上麻由子[5]などの仕事から古代史における交易の実体を知ることができるし、その後の日宋交易、日明交易についても知ることができる。ポルトガル船の来航が中国の港湾経由であり、乗船していた船員の多くは現地雇用の中国人であり、対日交易の商品の多くは中国の産品であったことも分かっている。日本が熱心に購入した南蛮由来の物品の代表、鉄砲でさえ、南蛮渡りと言っても実際にはポルトガル人の指導の下に中国で製造されたものが多かった。こうした背景的な知識を加えてカルタの伝来史を構想するとき、カルタの中国経由伝来説は重要な指摘であり、こういう背景的な歴史知識が十分でなかった昭和前期に早くも鋭くそれを提起した永見の見識には敬服させられるのである。

これに加えて、大航海時代のポルトガル商人、スペイン商人、カソリック教会関係者による奴隷貿易がある。永井がこれをどこまで認識していたのかは不明であるが、ルシオ・デ・ソウザの最近の研究[6]によれば、十六世紀の東アジアでは奴隷の売買が盛んであり、多くの日本人が買い取られ、貿易船に乗せられて船内労働者として肉体労働を強いられ、到着地で奴隷として人身売買されていた。その記録は断片的にアジア各地、ヨーロッパ、南北アメリカに残されている。これを詳細にみると、九州で人身売買された者は、男女を問わず、カソリックに改宗させられたうえで、奴隷、場合によっては自由人として売買された。中には、日本人の当人の認識としては海外での出稼ぎの「年期奉公」のようなものであったらしい例も報告されている。実際、幼少期に買い取られて海を渡った男女の中には、買主によって家族のように遇された、「奉公」に近い場合もある。

日本人奴隷は当時の主要な貿易品の一つであり、多数の者が売買され、特にその拠点であったポルトガル領のマカオには数千人の規模で日本人が滞在していたと考えられる。スペインの場合、拠点はマニラで、ここにも数百人の日本人が滞在していた。だから、十六世紀の後半に日本にかるたの遊技を持ち込んだ者の中に、航海時の肉体労働者として買われて乗船していた奴隷日本人がいたことも十分に考えられる。日本人であれば、言葉の壁もなく、この未知の遊技もよほどスムースに伝わったことであろう。


[1] 池長孟の生涯については、高見沢たか子『金箔の港:コレクター池長孟の生涯』筑摩書房、平成元年。池長のコレクターとしての主義主張については池長孟『南蛮堂要録』池長美術館、昭和十五年。

[2] 永見徳太郎『南蛮美術集』大雅堂、昭和十八年。

[3] 上田正昭『渡来の古代史』角川選書526、角川書店、平成二十五年。

[4] 田中史生『国際交易の古代列島』角川選書、角川書店、平成二十八年。同『渡来人と帰化人』角川選書614、角川書店、平成三十一年。

[5] 河上麻由子『古代日中関係史』中公新書2533、中央公論新社、平成三十一年。

[6] ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷』、中央公論新社、平成二十九年。

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