(一)鈴木棠三、森田誠吾の「いろは地口かるた」見落とし

斎藤月岑自画像
斎藤月岑自画像

この文章を、歴史から消えた一つの史料の復元に絡む個人的な研究過程の回顧から始めることをお許し頂きたい。江戸時代末期の文筆家、斎藤月岑(さいとうげっしん)の雑記帳『翟巣漫筆(てきそうまんぴつ)』[1]の慶応二年(1866)の箇所にある記録は「いろはかるた」の歴史研究では最重要視されている文献史料である。ここには「昔よりありしいろはたとへ哥かるた」「文化頃、北斎のいろはたとへ 暗記のまましるす」「又同じ比のたとへ哥かるた」「いろは地口」がある。この年六十三歳になった斎藤が、自分が子どもだった文化、文政期に遊んだ「いろはかるた」を懐かしがって記したものと思われる。斎藤は五十年も以前のことなのに資料によらないで記憶で書いているので、思い出せなくなっているものや、複数の諺のうちで訂正したり迷ったりしているものもあり、息づかいが文面にリアルに現れている。

この資料を本格的に活用したのは近世日本文学、日本語の研究者で「いろはかるた」研究の第一人者とされていた鈴木棠三である。鈴木は昭和三十六年(1961)の著作『ことわざ歌留多』[2]でこれに触れて「いろはかるた」の歴史を述べた。ところがここで鈴木は、『翟巣漫筆』は「三種のいろはかるたを掲げて‥‥そのあとに余興のつもりか、『いろは地口』というものも添えてある」とした。鈴木は「いろは地口かるた」というものを認識できなくて、そのために、斎藤がいう「いろは地口」は、第四の「いろはかるた」であったのにそうと識別されることなく、「余興」に転落されてしまい、もはや「というもの」で添え物扱いである。

のっけから細かい話で恐縮だが、斎藤は、①「昔よりありしいろはたとへ哥かるた」、②「文化頃、北斎のいろはたとへ 暗記のまましるす」、③「又同じ比のたとへ哥かるた」、④「いろは地口」、と書いている。鈴木はこれを「三種のいろはかるた」と理解しているが、どうしてそうなるのか。①は確かに「昔よりありしいろはたとへ哥かるた」だから「いろはかるた」であるが、②は「文化頃、北斎のいろはたとへ」であって「かるた」と明言してはいない。③は「又同じ比のたとへ哥かるた」であって、「譬え歌かるた」ではあるが「いろは譬え」のかるたとは言っていない。後に見るようにこれは「いろは譬えかるた」よりも古くから伝わる「譬えかるた」を指しているのでが、鈴木は、斎藤がこれを書いた慶應二年(1886)にはすでに「譬えかるた」は「いろは譬えかるた」に駆逐されて消滅していると考えていたので、これを「又同じ比のいろはたとへ哥かるた」のことだと誤読した。そして④の「いろは地口」は、文章上は「いろは地口かるた」とは書かれていないので、鈴木のように「かるた」になり損ねた「いろは地口」の一覧表と理解することは可能である。そうすると、鈴木による読解の立場に立つと、斎藤は、二種の「いろはかるた」と一首の「譬えかるた」、そして余興の「いろは地口」一覧表を書いたことになりそうなのだが、鈴木は「三種」の「いろはかるた」と余興が一点と読み解いた。これは誤読であるが、皮肉なことに、斎藤は「いろは地口」で実は「いろは地口かるた」について書いているので、ここにある四種のかるたは、「三種のいろはかるた」プラス一種の「たとえかるた」であり、「三種のいろはかるた」という表記は、数だけはつじつまが合っている。

鈴木に次いで「いろはかるた」の研究者として高い評価を得ていたのは森田誠吾である。森田には昭和四十五年(1970)の『昔いろはかるた』[3]をはじめとして「いろはかるた」に関する多数の論考があり、後に小説家に転じて昭和六十年(1985)に『魚河岸ものがたり』で直木賞を受賞している。森田は鈴木の誤解に影響されて同調したのであろうが、鈴木よりももっときつくて、『翟巣漫筆』は三種の「いろはかるた」を取り上げたと説明するだけで、「いろは地口」は「余興」としてさえも無視されている。そして鈴木は、今度は逆に森田に同調するかのように、昭和四十八年(1973)の『今昔いろはかるた』[4]では「いろは地口」については一切触れていない。

こうして、「いろはかるた」研究の両横綱によって「いろは地口」はかるたの歴史から消された。遅れて昭和五十年代(1975~84)に研究を始めた私も「いろは地口」というかるた遊技の存在には全く気付かないでいた。だが、転機は突然にやってきた。『翟巣漫筆』は後世に活字になったことが一度もなく、斎藤が書いたものが国立国会図書館に所蔵されているだけであるので、この図書館に行き、閲覧を申し込み、該当のページを開いてそこに三種ではなく、四種の「譬えかるた」が書かれていることを知って愕然とした。

長谷川忠兵衛版「地口かるた」
長谷川忠兵衛版「地口かるた」

実は私は以前から一組の「地口かるた」を蒐集していた。それは明治前期(1868~87)に東京は神田鍛冶町六番地のかるた屋長谷川忠兵衛が制作、販売した「地口歌留多」である。カードは縦六・〇センチ、横四・三センチで、赤色、黄色、青色、紫色、灰色の五色が木版摺りされている。箱は元々なくて、畳紙で帯封されて売られていたと思われる。

だが私が勉強してきたそれまでのかるた史のどの著作にも「地口かるた」はその遊技についても、またそのカードについても全く載っていないので、これは東京のかるた屋が明治前期(1868~87)に試しに作ってみたが評判にならず、すぐに制作を止めたテスト版の失敗作だろうくらいに軽く考えていた。それが、手元のかるたよりも十数年以前の慶応二年(1886)に斎藤月岑がこれに触れており、それも五十年以前、自分が子どもだった文化、文政期(1804~30)に実際に遊ばれていたかるたとして述べていたのである。これは驚くべき事実であった。足元の大地が割れて暗闇に墜落するような気持であった。

私は、この経験を基に、その後、「地口かるた」の研究を始めた。古書市や骨董市などでかるた札そのものも探した。誰一人同調してくれる研究者の居ない、孤独な研究であったが、徐々に、それなりにこのかるたの事情が明らかになった。その後平成四年(1992)の古書展に同じく明治前期(1868~87)の銅板摺りっぽい細工の木版で、「緑川や」が版元の「地口かるた」が出品され、三池カルタ記念館が購入した。後に、同じかるたで版が少し違う物を余所でも見かけたことがある。以下はその調査、研究の成果である。


[1] 斎藤月岑『翟巣漫筆』、ことわざ研究会『ことわざ資料叢書』第6巻、クレス出版、平成十四年、三一二頁。

[2] 鈴木棠三『ことわざ歌留多』、東京堂、昭和三十六年、三頁。

[3] 森田誠吾『昔いろはかるた』、求龍堂、昭和四十五年、六六頁。

[4] 鈴木棠三『今昔いろはかるた』、錦正堂、昭和四十八年、八〇頁。

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