「又同じ比のたとへ哥かるた」
いしの上にも三年
ろんごよみのろんごしらず
はい吹から大じや なより団子 欄外に:灰吹きに大じや
にたものは夫婦
ほとけ作ってたましひ入ず
へたのなかだんき
とんびのこ鷹にならす としの功より亀の甲 欄外に:としよりの冷水 とうだい本くらし
ち(欠落)
りやうはうきいてげちをなせ
ぬ(欠落)
る(欠落)
をんやうじみの上しらす つきさまにすつほん 欄外に:おつき様にすつほん
わが家らくのかまだらゐ われなべにとぢぶた
かりる時の地蔵かほ かべに耳あり 欄外に:かべに耳あり かれ木も山のにきやかし
よ(欠落)
たいかいを手でふせぐ ていたにみず ちうすにこも 欄外に:たちうすにこも
れうしは山を見ず
そ(欠落)
つ(欠落)
ね(欠落)
なくつらを蜂かさす
ら(欠落)
むまかた船頭おちの人
うのまねするからす 欄外に:うしに馬をのりかへた
ゐどはたの茶わん
の(欠落)
おゝかめにころも
くさつてもたい
やぶからぼう
ま(欠落)
けんくわ過ての棒ちきり木
ふしはくはねと高やうじ 欄外に:ふくはくひたし命はをしゝ
こうぼうも筆のあやまり こうはりつよくて家をたをす
えびでたい
て(欠落)
あやまつたいなりさま
さんにんよれは文殊のちゑ さわらぬ神にたゝりなし 欄外に:さをの先に鈴
きつねをうま 欄外に:きから落たさる
ゆめにぼたもち
めくらへひにおぢず
み(欠落)
しらぬが仏
ゑてに帆を上る
ひんほう柿のたね沢山 欄外に:ひさともだんかう 人をのろはゞ穴二つ
もと木にまさるうら木なし
せんどう多くて船を山へ上る
す(欠落)
鈴木棠三は、これを三種類目の「いろは譬えかるた」の記述であると理解した。だが、注意深く見て見ると、斎藤は「また同じ比(ころ)のたとへ哥かるた」と記しているのであって「おなじ比(ころ)のいろはたとへ哥かるた」とか「いろはたとへ」と記してはいない。『翟巣漫筆』を解説した鈴木は、この時期にはすでに古風な「譬え合せかるた」は「いろは譬え合せかるた」によって駆逐されていたと誤解していたのだから、この三番目のかるたも「いろは譬えかるた」だと早合点して説明しているが、「譬え合せかるた」がなお健在であったことを前提にすれば、斎藤は「いろは譬え」二点に「譬え合せ」一点を紹介しているように読める。実際、斎藤は、この第三のかるたの記述では、「かりる時の地蔵かほ」と「かべに耳あり」「かれ木も山のにきやかし」、「こうぼうも筆のあやまり」と「こうはりつよくて家をたをす」、「ふしはくはねと高やうじ」と「ふくはくひたし命はをしゝ」、「さんにんよれば文殊のちゑ」と「さわらぬ神にたゝりなし」「さをの先に鈴」のように同じ頭文字の欄に複数の「譬え」を併記していて頭文字の重複が起きることは当然に認めており、前二者のかるたについて既述した際に、記憶が不確かでどちらであったか判断しにくかったものを併記して一方を消したのとは異なっている。
こうして、斎藤は、少なくとも文化年間(1804~18)頃の江戸に上方風の「譬え哥合せ」も存在していたことを証言していたのである。それが読み解けなかったのは後世の研究者の限界であった。
なお、ここで、鈴木棠三の研究について一言添えておきたい。私はこれまで、さまざまな文章で鈴木を厳しく批判してきた。それは、鈴木がそのかるた史研究の最初から致命的な誤解をしていて、それが今日までの研究者世界での研究の水準に悪影響を及ぼしてきたからである。とくに、①斎藤月岑が「いろは譬え」と「譬え」をきちんと区別して説明していたのに、鈴木がそれを誤解して、すべてが「いろは譬え」のことだと理解して、江戸時代から明治時代にかけて存在していた「いろは譬えかるた」とは別種の「譬え合せかるた」の豊かな歴史を無視してしまったこと、②同じく斎藤月岑が「いろは地口かるた」の積りで「いろは地口」と表記したのを鈴木が単に地口をいろは順に並べただけの「余興」ものと誤解し、上方の「粋ことばかるた」、江戸の「地口かるた」、ひいては多彩なことば遊びかるたの研究を封殺してしまったこと、③江戸時代後期に花開いた多彩な木版摺りの「いろはかるた」類、とくに「芝居遊びかるた」「百貨合せかるた」「武者かるた」「化け物かるた」などを軽視したことなどは、いずれも救いようのない大誤解である。
だが、忘れてはいけないのは、それでも鈴木はいろはかるた史研究のパイオニアであって、もし鈴木がその著『ことわざ歌留多』で詳細な研究のあり方を研究者世界で初めて示さなければ、いろはかるたを、文献史料と物品史料を駆使して学術研究の対象とすること自体がもっと遅れたに違いない。私は、鈴木がいろはかるた史研究の扉を始めて本格的に押し開いた功績を軽んじる積りはまったくない。鈴木が研究者世界に残した功績も大きいのである。鈴木の業績に接するときに必要なのは、それにべたべたと付き従うことではなく、その功績と欠陥を明確に分析して、得るべきものをきちんと選んで摂取する姿勢であろう。鈴木もまたそういう弟子を望んでいたことだろう。