こうして見てみると、同じ「妖怪かるた」に分類されるかるたの中で内容に大きな違いがあることが分かる。例えば、表紙にあたる「い」のカードでも、「いぬ神いのるくびのいけにえ(犬神祈る首の生贄)」(東博蔵)、「いどから出るさらやしき(井戸から出る皿屋敷)」(多田蔵)、「いとから出るさらやしき(井戸から出る皿屋敷)」(江橋蔵1)、「いぬかみやまのいぬ(犬神山の犬)」(江橋蔵2)である。「ろ」は「ろくろくび」を使うところは共通しているが、内容は異なっていて、「ろくろくびのむりのび(ろくろ首の無理伸び)」(東博蔵)、「ろくろくびのあぶらなめ(ろくろ首の油舐め)」(多田蔵)、「ろくろくび(ろくろ首)」(歴博蔵)、「ろくろくびのびやうぶごし(ろくろ首の屏風越し)」(江橋蔵1)、「ろくろくび(ろくろ首)」(江橋蔵2)である。中に「よ」の「四谷のお岩」、「や」の「柳の下の産女」、「さ」の「さよの中山夜泣き石」。「も」の「茂林寺の文福茶釜」、「京」の「京の町へ出る片輪車」のように七点のかるたのすべて、あるいはほとんどで共通するものもあるが、逆に、「と」のように、「とうをまげたる地震怪(塔を曲げたる地震怪)」(東博蔵)、「とさの山ごへのどゞ目鬼(土佐の山越えのどど目鬼)」(紙博蔵)、「とさの海のようぐわい(土佐の海の妖怪)」(多田蔵)、「とうふこぞう(豆腐小僧)」(歴博蔵)、「とこをもつてまくらがへし(床をもって枕返し)」(江橋蔵1)、「とうふなめこそふ(豆腐舐め小僧)」(江橋蔵2)のようにばらばらのものもある。歴博蔵のものは特に独自色が強く、「にんめんそう(人面草)」「へいけがに(平家蟹)」「ちのいけぢごく(血の池地獄)」「ぬれぼとけ(濡れ仏)」「をんなのいちねん(女の一念)」「よたかのばけたの(夜鷹の化けたの)」など、他に類似のものがないが、このかるたの場合でも、「ほ」は「ほん所をのをいてけぼり」と他のかるたと共通していて、辛うじて江戸で制作されたことが分かる。
この類似性と独自性の競い合いという点は、この時期に「犬棒かるた」に収れんした「いろは譬え合せかるた」とは大きく異なるし、いろはかるた類における多様な需要、多彩な市場の様子や、制作する側の各々が独自の意図を持っていたなど、当時のかるた文化の実際の姿を考えるヒントにもなる。
もう一つ特徴的なのは、図像の変化である。江戸時代の「化け物かるた」は、化け物が出現する状景を描いたものが多く、どういう状況だと出てくるかを子どもに説明している感が強い。化け物たちも相当に怖く描かれている。一方、明治年間(1868~1912)になると、化け物の全身ないし顔面を大きく描写しており、その多くは、たしかに子どもを脅す顔つきではあるが、その表情はどこかやさしく、目や口が笑っているものが少なくない。そこには、怖さもあるが親しみもある。昔から、化け物は子どもたちとは仲良しでもあった。化け物は人を驚ろかすが一緒に遊ぶ仲間でもある。危害を加えたり、まして人を殺したりする化け物は少ない。この、後者の側面を思い切り拡大したのが、例えば昭和後期(1945~89)の漫画家、水木しげるの「げげげの鬼太郎」の化け物たちである。怖さと親しさの両面性のうち、怖さに力点があるのが江戸時代の化け物かるたであり、親しみに力点が移ってきたのが明治以降の化け物であると言ったら、言い過ぎであろうか。
明治前期(1868~87)の化け物かるたは漢字の使用が少ないが、そのわずかな漢字にも振り仮名を付けて平仮名オンリーの幼児でも遊べるようにしてある。明治中期(1887~1903)のものになると最初から字札は平仮名オンリーである。親しげな化け物像には実際に遊びに使う子どもの低年齢化にも対応した販売戦略の意味もあるのであろうけど、絵札の図像を一つ一つ見て行くと、この化け物とはすぐに友達になれそうというほとんど忘れかけていた子どもの頃の気分が湧いてくる。制作者の大人の優しさがほの見えてくるが、ここに化け物かるたが長く子どもたちに愛好されている理由があるのかもしれない。