(三)「道勝法親王筆かるた」の歌人絵は『尊圓百人一首』由来

百人一首かるた絵の発祥に関する私の研究は、まずは、すでに情報が公開されていた「道勝法親王筆かるた」と「浄行院かるた」と私が入手した「諸卿寄合書かるた」の歌人絵を詳細に検討するところから始めた。この段階ですでに山口格太郎と白洲正子の厚情を得たことは今振り返っても稀有な幸運であったと思う。そして、研究を進めると、これらのかるたに共通して、江戸時代中期以降、今日までに普通に「百人一首かるた」とされてきた標準型の物とは何点か顕著な違いがあることが分かった。すなわち、①歌人名の表記のうち、権中納言敦忠が中納言敦忠に、大僧正行尊が前大僧正行尊に、権中納言匡房が前中納言匡房に、従二位家隆が正三位家隆になっている。②三條院の和歌の上の句「心にもあらで憂き世にながらへば」が「心にもあらでこの世にながらへば」であり、源俊頼朝臣の和歌の上の句「うかりける人をはつせの山おろし」が「うかりける人をはつせの山颪よ」、俊恵法師の和歌の上の句「夜もすがら物思ふうころは明けやらで」が「夜もすがら物思ふころは明けやらぬ」である。下の句の表記においてもこのような異同があると推測されるが基準作品として設定した「道勝法親王筆かるた」において下の句札が開示されていないのでそこは留保せざるを得ない。③崇徳院は皇族を表す繧繝縁(うんげんべり)の上畳に座るようには描かれていなくて、臣籍の者の座る高麗縁(こうらいべり)の上畳に座るように描かれている。(同時代のかるたには、臣籍のものには敷物が用意されていないが皇族にはそれが描かれている無畳かるたもある)。これらは誤記の範囲を超える相当に重要な違いであり、以上の特徴を備えた江戸時代前期(1652~1704)のものを「古型百人一首かるた」と呼ぶことができるし、これを後代のかるたから区分する①②③のポイントは「古型の判断基準」と略称することができる。

古型百人一首歌合せかるたの判別基準①  位官の表記
古型百人一首歌合せかるたの判別基準①
位官の表記(上段:道勝法親王筆かるた、
中段:諸卿寄合書かるた、
下段:浄行院かるた)
古型百人一首歌合せかるたの判別基準②
古型百人一首歌合せかるたの
判別基準② 和歌の表記
(上段:道勝法親王筆かるた、
中段:諸卿寄合書かるた、
下段:浄行院かるた)
古型百人一首歌合せかるたの判別基準③
古型百人一首歌合せかるたの判別基準③
崇徳院の畳の表現
(右:道勝法親王筆かるた、
中:諸卿寄合書かるた、
左:浄行院かるた)
「遊びのデザイン展」案内
「遊びのデザイン展」案内
(銀座ポケット・パーク、昭和五十九年)

私はこれらの事実に昭和五十九年(1984)に東京の銀座で開催されたかるたの展示会の監修をしていてとくに気になり、改めて調べ直してみると、江戸時代初期までの『百人一首歌集』ないし『小倉山荘色紙歌集』の巻物や色紙には、「古型百人一首かるた」と同じ歌人名と和歌本文の文字表記のものが相当数あって、これが単なるかるたの書家に固有の誤記ではなかったことが確認できた。こうした異種の『百人一首歌集』では、和歌の歌順は通例の『百人一首』とは異なって『百人秀歌』と一致している[1]が、かるたになってしまうとカード状なので容易にばらばらになり、後世の所蔵者によって、後世の常識に従って順番を揃えられて収納されるので違いが見えにくくなることにも思い至った。この展示会では気付いたばかりの事実を問題提起しつつ構成した[2]ものの、私自身の研究はまったく不足していたので、滴翠美術館の山口格太郎にも何回か教えを請うた[3]し、特に秘密にするべきことでも無かったので不十分なままであったがマスコミに話したり、当時のかるた好きの研究者、蒐集家で構成されていた研究会「かるたをかたる会」などで要旨を発表したりしていた。そこでこの会の内外では、上に述べた『当家雑記』の「しうかく院起源説」と「古型百人一首かるた」の「古型の判断基準」に関する私の知見は既知のこととして理解されていたので、五年ほど後に平成年間に入って同趣旨のことが吉海直人によって自身の研究の成果の新発見として発表されたのには心底から驚いた。吉海はそれを誇って「平成最大の発見」[4]と自称していたが、昭和末期(1980~89)にはすでに東京の研究者の間では公知の事実であったのに関西の大学人はすごいと呆れた。

私がこのことを主張し始めた当時は、かるた史研究者にも、日本文学史研究者にもこのように表記の異なる異種の「百人一首」歌集の存在とそれがかるたの元になった事実を唱える者は皆無で、奇想天外な素人の議論、ホラ話との扱いを受けた。一方山口は世に誇る滴翠美術館の収蔵品の鑑定に強く影響することが見越されるのにこの新発見をぜひ発表するように勧めて編集者も紹介してくれた。その励ましに添って書いたもの[5]を見ると、発表している私自身がまだ半信半疑であったのだから、論述が途中で切れたりしている。細部の検討も不十分で誤りも多い。また、この発見は、「歌合せかるた」の世界だけではなく、本体の「百人一首」という歌集に関する日本文学史の理解のあり方にも大きく影響するものであることは理解できたので、「百人秀歌」歌集の発見者である有吉保などの研究者にも意見を求めたが反応ははかばかしくなかった。私はかるた史の研究者であって日本文学史のそれではないと自覚するので十分な調査と研究なしに越境して発言することを控えて、書いたものの中では寸前で筆を止めた。

私が研究を始めた当時には、「道勝法親王筆かるた」は、慶長、元和年間(1596~1624)に制作された現存するもっとも古い「百人一首かるた」とされていて、かるた史上の史料としての価値は比較できるものがないほどにとびぬけて重要視されていた。恐らく、所蔵者の山口吉郎兵衛、格太郎親子はそのことにひそかに気づいていたが、彼ら以外には、それを疑ったのは私以外にはいなかったのではなかろうか。研究の手順としてはごく当たり前であるが、私がまず取り組まねばならなかったのは、このかるたの厳密な史料批判であった。これを発見して蒐集した山口吉郎兵衛の『うんすんかるた』での説明[6]を元に細かく見ると、このかるたのカードでは、「上の句」札は「表は紙地金砂子散らし、二三種の草花模様金描、裏は銀無地」で、「下の句」札は表が「青地紙」であるほかは、「上の句」札と同様に「金砂子散らし、二三種の草花模様金描、裏は銀無地」である。「上の句」札には歌人名、和歌の分かち書きがあり、下部に歌人図が描かれている[7]。このかるたは「下の句」札に実際の遊技に相当に使用された手擦れ、汚れ、折れなどがあり[8]、「銀無地の裏張、帙等は天保頃の仕立替」であり、「桃色地有職模様緞子の帙に『小倉山荘百人一首』と外題がある」。外箱には「御外題紀八穂主筆」とあるので、これも帙の新調以後、文政年間(1818~30)以降の誂えである。

そしてこのかるたには江戸時代後期の古筆鑑定家、大倉好齋の極札「道勝法親王哥軽板全部極」があり、その中身は「百人一首歌軽板全部縦二寸八分横一寸九分 秋の田の 我こころもしらす 右 聖護院宮道勝法親王正筆無紛者也 丙戊秋 好齋(汲水印)」[9]である。「丙戊秋」であるから文政九年(1826)に書かれたものである。これと別に、黒漆の外箱に「聖護院宮道勝法親王、元名興意改道勝、正親町院御孫、陽光院御子、御陽成院御弟也、御母新上東門院、准三后藤晴秀公女、林鮒主」の箱書きがある。林鮒主は江戸時代後期(1789~1854)前半の京都の味噌商で、国学者、狂歌師であり、天保二年(1831)に六十八歳で死去しているから、箱書きはそれ以前ということになり、このかるたの仕立て直しは文政九年(1826)から天保二年(1831)の間ということになる。箱書きは大蔵の極札に云う筆者の道勝法親王を懸命に説明していて、ここまでしなければ江戸時代後期(1789~1854)の人々にかるたの価値が理解してもらえなかった事情を物語っていて、品位品格を重んじる高級かるたの箱書きとしては異例で、仕立て直しをして再度販売しようとしたときの下卑た細工であり史料的な価値は薄い。また、かるた札の収納箱が黒漆になるのは元禄年間(1688~1704)以降のことで、元箱とは考えられない。このかるたの場合は江戸時代後期(1789~1854)の修理の際に新たに用意されたものと思われる。山口はさらに同書で『詰所系図』に「興意法親王、初名道勝‥‥元和六年十月七日寂江府(四十五歳)」とあることも紹介している。このかるたの筆者が本当に道勝法親王であるならば、その成立は死去の年である元和六年(1620)よりも以前と云うことになり、現存するかるたの中では飛び抜けて古いのだが、文政年間(1818~30)末期に書かれた由緒の過剰な説明がむしろ疑念を深めている。

このかるたは、安土桃山時代の豪放な書の遺風が残る、江戸時代初期(1603~52)の書とされている。また、「上の句」札と「下の句」札の台紙の色彩を異ならせている点や、仕立替えだが裏紙を銀無地にしている点などは古い時期の「歌合せかるた」の様式を踏まえている。だが他方で、歌人名と和歌の表記や歌人絵が世阿弥光悦や角倉素庵筆の『素庵百人一首』ないし『尊圓百人一首』本の影響下に書かれ、また描かれている。この点から判断すれば江戸時代初期(1603~52)の作ということはあり得ない。総合的に判断すれば、江戸時代初期(1603~52)の書風を学んだ書家の、高齢に達した江戸時代前期(1652~1704)の筆跡ということであろう。山口吉郎兵衛がその事実に気づいていたのではないかと私が考えるようになったのは、『うんすんかるた』の本文の末尾で、いろはかるたを扱ってきた個所で突然に、前後の記述との脈絡も不明なままに、「歌カルタの時代鑑別」[10]として、江戸時代初期のかるたの遺品は現存するものがなく、現存する最古品は、江戸時代前期の寛文、延宝年間(1661~81)頃に現れた貝型、将棋駒型等の「異形品」であり、今の四角の規格型に定まったのは元禄(1688~1704)頃からだと述べているからである。これは単なるメモで、たぶん、山口はまだ公表する意向ではなく、同書の編集者の考え方によって掲載された編集上のミスであったのだと思うが、道勝法親王筆かるたが慶長、元和年間(1596~1624)のものであるという同書の別の箇所での記述とは明らかに矛盾する。

在原業平像の向きの逆転
在原業平像の向きの逆転(右:素庵本、
中:道勝法親王筆かるた、左:尊圓本)

歌人絵に関して言えば、『素庵百人一首』と『尊圓百人一首』は内容がよく似ているが、『尊圓百人一首』の制作時に、『素庵百人一首』における在原業平朝臣像の左右を入れ違えるというヒューマン・エラーが生じている。業平はもともと武人姿の座像で、冠は巻纓冠(けんえいかん)、腰に太刀を帯び、手に弓を持ち、背に箭(や)を負う姿であり、向かって左を向いている。それが、『尊圓百人一首』では、同様の姿であるが右を向いている。もう一点、『素庵百人一首』では右手をもち上げて、顎髭に触れているように見えるが、『尊圓百人一首』では左右両手ともに下に下げている。一方、同じく武人姿の参議等は、『素庵百人一首』でも『尊圓百人一首』でも左を向いているが、『尊圓百人一首』の参議等は右手で顎髭に触れている。『素庵百人一首』ではこれは業平のポーズであり、参議等は左右の手をともに下に向けているのであるから、『尊圓百人一首』の参議等は実は業平である。結局、『尊圓百人一首』は『素庵百人一首』の在原業平朝臣を参議等とし、逆に参議等を在原業平朝臣としていたのである。そして「道勝法親王筆かるた」の在原業平朝臣の図像は右向き5-2⑫で両手を下げたままであり、これは本来は参議等の図像であるが、『尊圓百人一首』では業平である。「道勝法親王筆かるた」の絵師はその手本とした『尊圓百人一首』のミスに忠実に従っていたようである。

旧来の通説に従えば、「道勝法親王かるた」が制作されたのは慶長、元和年間(1596~1624)、『素庵百人一首』が出版されたのは寛永年間(1624~45)、『尊圓百人一首』が慶安年間(1648~52)であるから、慶安年間(1648~52)に出版された冊子よりも五十年も前の慶長、元和年間(1596~1624)、に制作されたかるたに、慶安年間(1648~52)のミスが写し取られているという常識的には説明不能の事態が生じている。旧来の通説でこの混乱を合理的に説明できた例を知らない。

「道勝法親王筆かるた」の歌人絵と『尊圓百人一首』の歌人画を詳細に比較すると、両者の驚くべき一致に驚く。歌人の身体の向き、しぐさ、衣裳、冠などが酷似している。相違点を捜すと、大貮三位像と周防内侍像が各々『尊圓百人一首』では左方を向いているのに「道勝法親王筆かるた」では右方への見返り姿に描かれていること、相模像が『尊圓百人一首』では左手でもって顔の前で広げている扇が「道勝法親王筆かるた」では描き忘れられていること、藤原基俊像が『尊圓百人一首』では武人姿なのに「道勝法親王筆かるた」では公家の姿になっていること、待賢門院堀河像が「道勝法親王筆かるた」では右手に扇を持って顔面に当てていることくらいでその他の九十五名の図像は酷似している。この他に上畳の描き方にずれがあるが、それについては後に扱う。この結果から見れば、「道勝法親王筆かるた」は慶安四年(1651)に刊行された『尊圓百人一首』を手本としてその年以降に制作されたかるたであり、その制作時期は、この版本の社会的な影響が顕著になって絵入り「百人一首かるた」が広く登場するようになった延宝年間(1673~81)以後で元禄年間(1688~1704)に近い時期のものと見られることになる。縦が八・五センチ、横が五・八センチで、縦横の比率が六十八パーセントであり、色紙型が基本形であった江戸時代初期のカードだとすると妙に細長い。大倉の極札を根拠にこのかるたを慶長、元和年間(1596~1624)の物と判断することには重大な疑問が浮上するのである[11]

持ち具を忘れた歌人たち
持ち具を忘れた歌人たち(上段:尊圓本、
下段:道勝法親王かるた、江戸時代前期)

こうして、私は、このかるたの出自については疑問を感じていたのであるが、あえてそのことを公表するのをためらっていた。だが、平成二十年代(2008~17)に入って、滴翠美術館がこのかるたの既使用感の濃い下の句札まで撮影を許可するようになり、山口格太郎が生前に示していた微妙なためらいを振り切ったことを知り、山口格太郎への敬意その他様々な理由で捨てきれないでいたそれまでの長い期間の逡巡を振り切って、「道勝法親王筆かるた」が慶長、元和年間(1596~1624)のものであるとする神話は虚偽であることを全面的に指摘するようになった。このかるたは慶長、元和年間(1596~1624)のものではなく、元禄年間(1688~1704)に近い時期のものである。慶安年間(1648~52)に刊行された版本の『尊圓百人一首』の図像を、そこでのミスも含めてそのまま引き継いでいることが、かるたの制作の時点が版本の出版以前に遡ることができない決定的な証明になっている。なお、「道勝法親王筆かるた」の図像では、『尊圓百人一首』に描かれていた、僧侶の数珠や公家の笏や扇などのような歌人の持ち具が数多く欠落していて、図像が不自然になっているものもある。この持ち具の欠落は「道勝法親王筆かるた」の顕著に固有な特徴であり、このことから、「道勝法親王筆かるた」が先行して、そのかるたそのものか、かるたが手本とした画帖を『尊圓百人一首』が模倣した際に不足していた数珠、笏、扇などを補ったのではなく、逆に「道勝法親王筆かるた」が『尊圓百人一首』を模倣した際の書き漏らしであり、どちらが手本で先行していたのかを露骨に告白していることが知れる。

なお、昭和五十三年(1978)に東京の小田急百貨店本店で開催された「滴翠美術館名品展」には、山口格太郎の選抜で、同館所蔵の多くの名品が茶陶、国焼、カルタ、人形、羽子板など多彩に展示されており、カルタ、かるたの名品も出品されているが、なぜかこの「道勝法親王筆かるた」は展示されていない。山口に出品をためらわせる何かわだかまりがあったのだろうが、さすがに本人に面と向かって、なぜ名品と評価できなかったのか、その事情を聞くことはできなかったので、よく分からないままである。

ただし、誤解を避けるために明確に書いておきたいが、このかるたを慶長、元和年間(1596~1624)のものとする鑑定には全く同意できないが、それでもこれが江戸時代前期(1652~1704)のかるたで、現存最古級の貴重な物品史料のひとつであることは間違いがない。山口格太郎は、大倉好齋の鑑定に疑問を持っていても、このかるたのそれなりの古さ、質の高さを自分で評価して、最古級の「百人一首かるた」史料として学界に情報を提供していたのだと思う。その際に、山口は、「上の句」札は全面的に公開したが、既使用感、カードの痛みがある「下の句」札は努めて公開をしなかったし、後世の拵えものである「桃色地有職模様緞子の帙」や説明文が過剰な黒漆の収納箱などの公開も控えていた。ここに暗示されるような内心のためらいを振り切って、かるた史研究のためにデータの公開に踏み切った山口に対して、大倉の鑑定に疑義があると明示しなかった非を咎めることはあるまい。むしろ、この山口の寛大な開示によって初期の「歌合せかるた」に関する重要な情報が共有できるようになり、その歴史研究が大きく前進できたことの功績こそが強調されるところである。

いずれにせよ、こうして神話は崩壊した。そのことが理解できない古い蒐集家や自称研究者は、なお私の説に不満は示しているが反論、批判はできないでいる。以前、「百人一首かるた」の発祥が遅くも慶長、元和年間(1596~1624)とされ、それには最初から歌人の図像がついていたと考えられていたのは、ひとえにこの「道勝法親王筆かるた」の存在が根拠とされていた。神話崩壊後の視点で振り返れば、このかるた以外には江戸時代初期(1603~52)の史料がまったく発見されていなかったのは奇妙な事態であり、ただ一点で孤立したこのかるたの鑑定のほうこそ疑わしいのだが、偏見が通用していた当時は、このかるたの由来を疑う者はおらず、逆に、蒐集家たちは、手持ちのそこそこに古風な「百人一首歌かるた」をこのかるたの年代測定に乗じて江戸時代初期(1603~52)、ひどいときには安土桃山期のものであると自慢するようになり、「一犬虚に吠ゆれば万犬声に吠ゆ」の状態になって神話は信ぴょう性を増す結果になった。そこに私が仕掛けた神話の崩壊はかるた史の理解に深刻な影響を及ぼし、関連するかるたなどの史料の再評価、再検討を求めることになった。

なお、「道勝法親王筆かるた」を見てもう一点気になるのが、カード上の和歌の表記での平仮名の使用頻度の高さである。もともと、『素庵筆人一首』や『尊圓百人一首』は、ある程度教養のある大人の男女向けの書物であるから、比較的に漢字の使用頻度が高い。そして、それがうまく読めない読者へのサービスであろうか、漢字に振り仮名がついている。例えば天智天皇の和歌では「かりほの庵(いほ)」と表記される。それが「道勝法親王筆かるた」では「かりほのいほ」であり、平仮名が使用されている。喜撰法師の和歌で「都」が「みやこ」と表記されているのも珍しいし、在原業平朝臣の「龍田川」も「たつた川」である。素性法師の「今来むと」が「今こんと」なのは少々軽薄でもある。崇徳院の「瀧川の」も「たき川の」である。これらは他の同時期のかるたにはあまり顕著ではないこのかるたの特徴である。

頬に紅を注(さ)した歌人たち
頬に紅を注(さ)した歌人たち
(道勝法親王筆かるた)

もう一点気になるのは、「道勝法親王筆かるた」では歌人絵の顔の表情がすべていかにも若々しいことであり、頬に紅を差している5-2⑭点も極めて珍しい。大牟田市立三池カルタ・歴史資料館には江戸時代前期(1652~1704)の高級な「狂言絵合せかるた」が所蔵されているが、頬に紅を差す特徴が共有されていて、かわいらしい表情のかるたを売り物にしていた同じかるた屋の制作したものと判断される。

に想定されるのは、このかるたが、上流階級の幼い女児が愛玩するように文字に平仮名を増やし、歌人絵を表情も優し気に描いたという事情である。注文に基づく一品制作であればこそ可能であったのだと思うが、当時の歌かるたをめぐるかるた屋と顧客の関係まで想像できて楽しい。


[1] 田中宗作「如儡子の百人一首注釈書について」『百人一首古注釈の研究』桜楓社、昭和四十一年、一一七頁。

[2]  「崇徳院“仲間はずれ”のナゾ」、『毎日新聞』、昭和五十九年十二月一日。

[3] 手元に、昭和六十年五月に東京の「東洋文庫」に通って嵯峨本の『百人一首』、『光悦筆百人一首』、『素庵百人一首』の異同を調査して、その結果を山口に報告して検討した往復書簡(未公開)がある。

[4] 吉海直人『百人一首への招待』ちくま新書第一八二号、筑摩書房、平成十年、三三頁。

[5] 江橋崇「百人一首成立期の謎」、『月刊文化財』、第一法規出版、平成三年、一〇頁。

[6] 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、一二七頁。

[7] 西本周子「百人一首かるたの世界」『季刊墨スペシャル第02号 百人一首』、芸術新聞社、平成二年、三八頁はこのかるたの評価がやや低い。

[8]  【道勝法親王筆百人一首歌かるた】、『季刊墨スペシャル第02号 百人一首』、芸術新聞社、平成二年、一六頁には痛んだ「下の句」札の画像が見られる。

[9] 濱口博章、山口格太郎『日本のかるた』、カラーブックス二百八十二号、保育社、昭和四十八年、目次頁裏。

[10] 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、一六三頁。

[11] 仲町啓子「尾形光琳の造形性に関する一考察」『國華』一〇二七号、國華社、昭和五十四年、九頁も同様の疑念を提示している。

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