カルタ博奕の禁制を本格化させたのは、空前のめくりカルタブームであった天明年間(1781~89)の末に成立した松平定信政権である。この政権は寛政年間(1789~1801)に入ると歌舞伎、絵草子、浮世絵などへの執拗な抑圧とともに、博奕の取締りにも厳しくあたった。それは、享保年間(1716~36)の徳川吉宗政権以来の、賭博行為を博奕と賭けの諸勝負の二類型に分けて緩刑で臨む約七十年続いた政策からの大きな逸脱であった。この新政策によって、江戸を中心に花開いていためくりカルタ賭博の文化は一挙に萎んで、このカルタに親しむことは悪行であるとされ、その活動は地下深くに潜行するようになった。
もともとめくりカルタ賭博は庶民による軽微な賭けの遊技であった。安永八年(1779)の呉増庄作、鳥居清長画の『金平異国めぐり』を見ると、めくりカルタ賭博の遊技は「ばくなん國」では座敷で行われ、台所で飯炊きなどがしている「桐の焼判コマ」の独楽博奕とともに軽微な賭けの遊技の扱いであり、次頁の本格的な骰子博奕に明け暮れる「てつくわ(鉄火)國」とは区別されている。しかし、このめくりカルタ賭博が徐々に専門の博徒が素人から搾り取る博奕場で使われるようになり、両者の境界も不明確になった。そこで幕府がめくりカルタも悪質だと考えて規制するようになった。これがごく一般的に見た寛政期の賭博規制改革の印象である。
松平定信政権は、博奕の禁止を厳しく徹底するとともに、博奕用具の制作、販売の全面禁止に出た。幕府の厳しい態度は各藩にも及び、全国各地で博奕の禁止と博奕用具の販売禁止が指示されている。その意味で画期的とされる寛政三年(1791)八月の江戸の町触れ[1]は「博奕に限って用いられるカルタ札は売買してはならないし、それに準じられる博奕用品を売買すればその品を没収したうえで罪に問う」と宣告している。
だが、この町触れの発せられた経緯をもう少し注意深く見てみよう。というのは、博奕用具の制作、販売の規制はそれ以前からひとつの課題として自覚されていながら見送られてきた政策であり、松平定信政権はそれの変更を迫ったものであったからである。この政権は、田沼意次政権を武力で押し倒して成立した軍事独裁政権ではないのであるから、一片の命令で七十年以上にわたって確立されてきた法慣習の変更を行うことなどできはしないのである。
寛政の改革を強行した松平定信政権は、その風俗矯正の施策がはなはだ強引であったという印象が強い。そこで、カルタ博奕の規制も強圧的、一方的に押し付けられたという漠然とした印象に頼り、この町触れ以外には史料の探索をおこなわないでこれを強圧的な博奕規制の証左として指摘することが多い。ところが、この町触れを発した時期より半年前の寛政二年(1790)十二月に、江戸の町奉行所は、年番名主に「かるた札之儀、当時勝負博奕ニ全遣候ハ、何かるたト申事ニ候哉之事」と、もっぱら博徒らの博奕の勝負で専門に用いられるカルタ札はどれなのかを諮問している[2]。これに対して年番名主は三日後に、カルタ札と言えば歌カルタと読みカルタしかないが、歌カルタは格別として、読みカルタは智恵を争い、手慰みに使うものであり、その際に金銭を賭して勝負するようになると博奕に似てくる。読みカルタ札が、キンゴカルタやめくりカルタといった博奕に似た金銭を賭ける勝負に用いられていることは理解しているが、だからといって、このカルタ札が総て博奕にだけ使われているとまではいえない、と答申している。つまり、奉行所はもっぱら博奕に使うカルタ札と思われるのはどのカルタ札かと聞き、名主たちは読みカルタのカルタ札ももっぱら博奕用とまでは言えないと答申している。
これを受けてしかし奉行所は、十日後の寛政三年(1791)正月に再度、名主に向けてこう再諮問している。
「きんこかるた よみかるた めくりかるた 右三品實ハ博奕ニ用候かるたニ相違無之候ハハ、其段被申聞候事。正月」[3]
これを聞き、年番名主たちは前回と違って奉行所の判断に服している。
「以書付申上候。きんこかるた、よみかるた、めくりかるた、右三品、實ハ博奕限相用候かるたニ相違無御座候旨及承申候。此段御尋ニ付申上候。以上 亥正月二日 去戌年小口年番 年番名主共 奈良屋御役所」[4]
つまりここで、きんごカルタ、読みカルタ、めくりカルタは「実は」博奕専用のカルタ札であるという奉行所の判断が示され、名主たちはそれを受け入れて、新たな官の要求が民の同意、服従を得て成立したのであり、これを受けて半年後に「博奕ニ限リ用候かるた」、つまりめくりカルタ札の規制に乗り出したのである。こうした奉行所の態度はそれなりに事前に江戸の商人社会の同意を獲得してから規制を加えようとするものであり、当時の幕政のあり方としては丁寧な手順を踏んでいて、これを一方的、強圧的と断じるのはゆきすぎである。松平定信政権といえども、既成の法制度を変更するにあたっては、こうした丁寧な手順を踏んでいるのである。
[1] 近世史料研究会『江戸町触集成』第九巻、塙書房、昭和六十三年、一七七頁。
[2] 同前『江戸町触集成』第九巻、七三頁。
[3] 同前『江戸町触集成』第九巻、八五頁。
[4] 同前『江戸町触集成』第九巻、八五頁。