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(四)「浄行院かるた」は『素庵百人一首』由来

浄行院かるた・収納箱
浄行院かるた・収納箱
(白洲正子旧蔵、『百人一首』)

以前から図像データが公開されているもう一つの江戸時代前期の「百人一首かるた」が「浄行院かるた」である。これは五代将軍徳川綱吉の正室浄光院(このかるたでは浄行院)の遺品とされているもので、横幅が縦の長さの六十七パーセントで「道勝法親王筆かるた」と似た縦横のバランスであり、裏は銀無地で元禄年間(1688~1704)の初期かそれに近い時期の制作と思われる。これは長く白洲正子が所有していた物で、昭和四十九年(1974)平凡社刊の『別冊太陽愛蔵版百人一首』に「上の句」札百枚が、若干の「下の句」札や「倹飩(けんどん)」(岡持)型で朱漆が退色している元箱とともに掲載されている。和歌の表記は元禄期以後の内容と一致しているが流麗に書かれており、歌人絵も伸びやかである。

このかるたの歌人絵は『尊圓百人一首』ではなく『素庵百人一首』を手本として細密に描かれている。在原業平朝臣が右手であごひげをいじっているのは『素庵百人一首』に固有のポーズであるし、紀友則の膝の前に笏が置かれているのも『素庵百人一首』の特徴である。『尊圓百人一首』では紀友則の笏はすでに消失しているから、こちらを手本としたのでは笏は登場しようもない。これらが忠実に再現されているので『素庵百人一首』が手本であることがはっきりしており、『尊圓百人一首』を手本とするかるたが多い中で目立っている。だが、なぜか、『尊圓百人一首』にある待賢門院堀河と赤染衛門に皇族の繧繝縁(うんげんべり)の上畳を配する誤解を継承している。歌人名の表記でも、前中納言匡房が権中納言匡房に改められ、和歌の本文でも「此の世」が「うき世」に改められている。もしかすると、このかるたが手本としたものは、歌人絵では『素庵百人一首』の流れを汲むが、やや時代が下がり、歌人名や和歌の本文では標準型の文字表記を採った未見の版本であったのかもしれない。

なお、このかるたでは、書が流麗であるが軽率でもある。中納言兼輔の図像のカードで、上部に大中臣能宣朝臣の和歌が書かれ、逆に大中臣能宣朝臣の図像のカードでは中納言兼輔の和歌が書かれる取り違えのミスが起きている。他の九十八枚の歌人図は『素庵百人一首』に忠実であるのだから、この二枚のカードでの逆転は制作工程上での書家の勘違いによる単純な取り違えミスと判断される。また、在原業平朝臣の歌人名表記に「朝臣」が欠けているほか、大中臣能宣朝臣、藤原実方朝臣、藤原道信朝臣にも「朝臣」がなく、法性寺入道前関白太政大臣が法性寺入道前太政大臣、殷冨門院大輔が殷富門院大夫、後京極摂政前太政大臣が後京極摂政太政大臣などと軽率な誤記が多い。手本を座右に置いて揮毫するのであればこれほどに大量の間違いは生じないのであるから、このかるたの書家は気の向くままに自分の記憶で自在に書いているように見える。将軍家の正室の愛用品というわりにはぞんざいな作りのようにも見えるが、当時のかるたの制作事情を示すので記しておく。

浄行院かるた
浄行院かるた (右:在原業平、左:紀友則)
浄行院かるた
浄行院かるた
(右:中納言兼輔の図像に大中臣能宣の和歌、
左:大中臣能宣の図像に中納言兼輔の和歌)

このかるたについては、所有者の白洲正子から借用して調べる機会を何度も与えられ、長いときには一年以上も私の手元にあった。所蔵者の厚意に恵まれたのに「作りがぞんざい」とは失礼だが、遊技用のかるたとしては書も絵も伸びやかで、明るく愛らしくて好感が持てる。江戸城の大奥で女性たちがこのかるたで遊技していた当時の情景が目に浮かぶようであるし、それは現代での鑑賞の対象としての高い評価にもつながる。名著『私の百人一首』[1]の著者として名高い白洲の愛玩した魅力ある一品であった。


[1] 白洲正子『私の百人一首』新潮社、昭和五十一年。

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