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(七)百人一首かるた絵の起源

以上、江戸時代前期の歌人絵付き百人一首かるたの成立について、現存するかるたの比較分析によって明らかにすることができた。

歌人絵の付いた「百人一首かるた」は、江戸時代前期、万治、寛文、延宝年間(1661~81)に登場したと思われる。その歌人絵は、寛永年間(1624~44)に刊行された版本『素庵百人一首』か慶安年間(1648~52)に刊行された版本の『尊圓百人一首』の歌人画を模倣している。この二冊の刊本のいずれを手本としたのかはかるた屋の考え方次第であり、『素庵百人一首』を手本としたかるたの方が成立期が早いと考えられがちであるが、必ずしもそうと決まったわけではない。

皇族扱いの待賢門院堀河
皇族扱いの待賢門院堀河
(右:素庵本、左:尊圓本)

古型のかるたは、手本とした版本に忠実に絵柄が決められている。そこでの最大の問題点は、天皇と皇族の取り扱いであり、天智天皇、持統天皇、光孝天皇、陽成院、三條院、崇徳院、後鳥羽院、順徳院の天皇・上皇八名と元良親王、式子内親王の親王二名のうちで崇徳院と元良親王は皇族から除外されて繧繝縁(うんげんべり)の上畳を略されるという大胆な構図になっている。他方で、女性歌人については混乱があり、「浄行院かるた」では手本の『素庵百人一首』に従って待賢門院堀河が皇女扱いであるが、これ以外のかるたでは、共通して手本となった『尊圓百人一首』では堀河が皇族扱いであるのに、いずれのかるたでも女官扱いに正されている。一方、『素庵百人一首』では斎宮女御の構図が転用されて皇女扱いであった祐子内親王家紀伊は『尊圓百人一首』では官女扱いであり、古型のかるたを見比べると、几帳と繧繝縁(うんげんべり)の上畳を配して皇女扱いにしたかるた、几帳は残したが繧繝縁(うんげんべり)の上畳は廃して官女扱いにしたかるた、几帳も繧繝縁(うんげんべり)の上畳も廃した他の女性歌人と同じ官女扱いにしたかるたと区々ばらばらである。他方で赤染衛門は、『素庵百人一首』では官女扱いであったのに『尊圓百人一首』では皇女扱いであり、繧繝縁(うんげんべり)の上畳は配されたが几帳は置かれていない。

このように、天皇と皇族の図像に大きな乱れがあることが私の調査での最大の発見であった。そこに込められている含意については後に扱おう。

皇族扱いから女官扱いに変身した祐子内親王家紀伊 (右:素庵本、左:尊圓本
皇族扱いから女官扱いに変身した祐子内親王家紀伊
(右:素庵本、左:尊圓本)

もう一点、私の調査ではっきりしたのが、歌人絵の取り違いである。すでに各個に説明したように、江戸時代前期の古型百人一首かるたでは、カード上部の歌人名と和歌本文の書と、カード下部の歌人絵が食い違っているものが相当にある。これは「百人一首かるた」の制作の工程がうみだす欠陥である。かるた屋は、まず絵師に歌人絵を描かせて、その紙片に裏紙などをあてがってかるたのカードの形状にした後に、それを書家に引き渡して書を加えさせる。今日の人はかるたを見る際に、まず歌人名と和歌の本文の書を読むから、歌人絵を担当した絵師の誤りのように思いがちであるが、この制作工程を考えれば、かるた屋のミスもありうるが主としては書家の側の誤りであると推測される。絵師あるいはかるた屋は、歌人絵が誰を表しているのかを付箋などで書家に伝えていたであろうと思われるので、これだけ大量の取り違えが発生していることは驚きであった。かるた屋は、書家から書き込みの完了したカードが戻ってきた際に歌人絵と書の食い違いがないようにチェックする検品の工程が不十分であったことになる。当時のかるた屋の仕事の乱雑さが見えるように思える。

私の調査で判明した第三のポイントは、外形的な事実である。江戸時代前期の「古型百人一首かるた」では、上の句札と下の句札では色彩の異なる地紙を表紙(おもてがみ)に用いることと、銀裏紙の縁返し(へりかえし)でカードの形状を作ることが作法であり、例外はない。また、収納箱は慳貪(けんどん)型で朱漆の生掻けである。この点は、元禄年間以降の、同じ色彩の地紙による表紙(おもてがみ)、金裏紙、黒漆塗りの蒔絵箱という工法とは明確に違う。工芸品では、こういう一見どうでもいいように見える細部にその時代の様式が例外なく表れていることが多い。表紙(おもてがみ)の地紙の色彩、裏紙の用紙、収納箱の形状などが実はかるたの制作年代を判断する重要な要素なのである。

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